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映画『#ブルーを笑えるその日まで』(武田かりん監督)爆裂レビュー〜エンタメ比較を中心に(ネタバレあり)

映画『ブルーを笑えるその日まで』(武田かりん監督)爆裂レビュー

〜エンタメ比較を中心に(ネタバレあり)

 table of contents

1.ファーストインプレッション

2.セカンドフィーリング

3.サードパースペクティブ

4.フォーカス

①ハルカトミユキ『Vanilla』比較論

②劇団アンティークス『時を超えて』比較論

③ハルカトミユキ『水槽』

敵と味方と君と
世界中にそれだけ
言葉なんて空っぽだった
哲学は風の中

部屋は水槽のようだ
音も消えて
部屋は水槽のようだ
揺れて

たったひとつ欲しいだけなのに
たった1つ守るだけなのに
大人になる時は
少しだけ痛いよ
痛いよ
痛いよ

こんな静かな夜に君
はじけて溶ける緩いカーブを描き
溢れ出すように泣いて

 

『水槽』ハルカトミユキ

 

1.ファースト・インプレッション

今回は映画『ブルーを笑えるその日まで』(武田かりん監督)について映画・舞台・音楽など色々と様々な文化を比較することにフォーカスした形で考察したい。*1


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あらすじ
安藤絢子(アン)はひとりぼっちの女の子。唯一の居場所は薄暗い立ち入り禁止の階段。不思議な商店で、魔法の万華鏡を貰ったアンは、同じ万華鏡を持った生徒、佐田愛菜(アイナ)と出会う。二人はすぐに仲良くなり夢のような夏休みを送るのだが、屋上には昔飛び降り自殺した生徒の幽霊が出るという噂があり…アイナはその幽霊なのではないかという疑念を抱きながらも、お互いにとってかけがえのない存在になっていく二人。そんな楽しかった夏休みも終わりに差し掛かるのだった―。

あらすじにもある通り女子中学生の安藤絢子(アン)はいつも寡黙かつ孤独な少女だ。友情の証として持っていた色違いのクマの人形を無くしてしまったという事がキッカケで友人同士だったグループからも仲間はずれにもされてしまい、両親や姉などの家族にも心を塞ぎ込んでしまっている状態。そう正にアンは学校にいる水槽の中の金魚のようなそんな閉塞的な世界を生きている。アンはそんな世界から現実逃避するかのように「何でも屋(鶴亀商店)」のババからもらった万華鏡をクルクル回してその中で美しく刹那に変わる光景に没頭してしまう。と、同時に同じクラスメートだという亡霊か幻のようなアイナという不思議な少女がふっと現れ、屋上行ったりゲーセン行ったり図書館に行ったり.....などなど何気ないようでもかけがえのない心通わせる友情の日々。そんな今だかつてなかったようなクルクルとキラキラした日々を過ごす事によってアンの瞳にいつしか輝きをもたらされ今までなかったような微笑みをもたらすようになる。ある日、アイナは言う「"銀河"に連れて行ってあげる。」と。そして実際に連れて行かれた所は当然宇宙空間などではなくて小さな鳥居のある神社。でもその鳥居の前に立って目の前に広がる木漏れ日から漏れる太陽の光はとても煌びやかに輝いていて本当にまるで銀河のようなのだ。やがてアンはその銀河のような木漏れ日と万華鏡の景色のキラキラした光景とがオーバーラップする感覚を覚える。と同時に本を借りにいった時に図書館司書から聞いた話をきっかけに万華鏡の筒から見えるその光景は木漏れ日や銀河の星たちと同じように2度と同じものは見えないのだというある意味普遍的かつ残酷な事実を知るようになる。
そしてアンはふとアイナとはこの夏休みも過ぎたら2度と会えなくなるのではという不安も同時によぎるようになる。

「アイナはいなくなっちゃうの?」 アイナは答えないが、その予感は当たる。彼女は「9月1日にこの屋上から飛び降りるのだ。」と言う。

そう、二人がこうして会えるタイムリミットは夏休みが終わるまで。

アンはアイナと過ごした夏の終わりをカウンドダウンするかのようにカレンダーに×を付けていくにつれ、8月29、 8月30 日、8月31日と徐々にアイナとの別れの日が迫ってくるのをまた実感するようになる。
そんな万華鏡からの景色のような儚げな日々もいつか終わり、アンもいつしか成長して、大人になる階段を上り、いなくなった幻のようなアイナを思い出しつつみたいなほろ苦い青春ストーリーに収束する.......と

思うじゃないですか、普通。

あの〜合っているとも言えるんだけど合っているようで違います問うべきか(笑)
これがまあ大げさではなく、異次元にぶっ飛ばされる感覚を覚えた。
いや、ただただビックリ!!何せ本当に鶴亀商店のババからダイナマイトを買い取って本当に学校の屋上に忍び込んで爆発させようとするのだから!彼女らはテロ行為に走るのだ!!
本作はある意味これまでこう言う青春映画において邦画界(洋画でも言えるか)が定番としてテーマとしてきたものの風穴を空けたと思ったし、ある意味これはパンキッシュな作風だと断言したい。これには異論はあるかもしれないが私はそう感じた。
 とは言え、それには根拠があって予告編を見たときに「そうか、どうりでRCサクセションの『君が僕を知っている』という曲が主題歌として使われる訳だ。」とも妙に納得したものだったから。この映画、途中までの展開では、割と静かなアンビエントな感じのインストルメンタルの音楽が挿入されてたりするので、もうこのまままったりとじんわりと寂しいながらも最後はふっと光が差し込むような終わり方をするのだと思わせてしまう効果があるのだ。それは例えば劇団四季のロングラン公演ミュージカル『夢から醒めた夢』のようなドラマティックだけれども最後はセンチメンタルに収束する展開を予想していたから。*2

その儚げなインスト音楽がどこか夢のようなアンとアイナとの邂逅の物語を占めていて突如あの素っ頓狂なキヨシローのあのボーカルがバシッと入ってくるから目の覚めるような感覚を覚えるのだ。あの曲が入ると音量もこれまで以上に大きくくっきり聴こえてくるような気さえする。だから正直鑑賞前に予告編を見た段階では「何でこんなに静かな作風なのに、ましてや爽やかな青春モノっぽいのに最近のあいみょんとかではなくてJ-Popとしてはかなり懐かしい部類に入る"RCサクセション"の曲なんだろう??」と不思議に思っていたのだが本作を鑑賞する事によってもっとエッジが効いているような印象を受けたからこそ納得したのだ。
 具体的に言うとあの落書き&ダイナマイトリベンジを実行する場面では忌野清志郎のあの独特の歌声がこの上なくバッチリハマっているのだ。確かに本作のビジュアルイメージであるとか二人の女の子の佇まいであるとかフラジャイルな青春を扱った映画なんだけども、どこかタフで、どこかシュールでパンキッシュな怒りにも満ちていていると思わせたりするのがこの映画の斬新さであり、魅力の一つだと思う。

そう考えると本作は2022年ののん(能年玲奈)監督の『Ribbon』におけるクライマックスの夜中に校内立ち入り&〇〇〇〇壊しシーン(ネタバレ回避)を彷彿とさせる。

その辺りはこちらの過去記事を参照されたい。

nenometal.hatenablog.com


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因みに本作では授業をサボってアンが屋上にいくシーンはRCの名曲『トランジスタ・ラジオ』ともリンクしたりして。

Woo 授業をサボッて Yeah
陽のあたる場所にいたんだよ
寝ころんでたのさ
屋上でたばこのけむり
とても青くて

トランジスタ・ラジオ』

RCサクセション

 まあ本作では屋上でタバコを吹かすどころかむしろ屋上でダイナマイトぶち撒けようとしてるんだけど(笑)

 でもどことなくRCサクセションはロックあるいはパンクとして解釈されがちなんだけど根底にある青春期特有のナイーブさだとか人間味だとか優しさだとかが根底にあるのかもしれない。そもそも忌野清志郎という人がそういう人で、あの放送禁止事故を起こした過激志向のタイマーズですらデビューはヒューマニズム溢れる『デイ・ドリーム・ビリーバー ~Day Dream Believer~』から始まったのだ。だからこそ武田監督は本作のメインテーマに採用したのだろうとも思う。


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 本章のラストとして、去年の年末12/14にアップリンク吉祥寺で開催されたトークイベントの模様を紹介したい。

武田かりん監督が本作を撮影したきっかけなどを質問形式で答えたものだがこれほど監督が真摯に質問に答える舞台挨拶は初めてだと思う。


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 武田監督は辛い学生時代の過去を思い出したからだろうか、途中目に涙を溜めながらそれを堪えつつも以下のように語った。「一番の友達は"人間"じゃなくていい、それが私にとって絵を描くことだったり本を読むことだったり。でもそれで良かったなって。」そう、これがきっと彼女の学生時代と同じように不登校やいじめで悩む学生に見てもらいたいと願う彼女が伝えたいポジティブなメッセージの一つなのだろう。

そういえば、インディーズ映画界では毎年口コミで徐々に拡大上映してロングランする作品が存在する。それは2018年の『カメラを止めるな』だったり2020年の『アルプススタンドのはしの方』だったり、2021年の話題を独占した『ベイビーわるきゅーれ』だったり、あと昨年大ヒットした『茶飲友達』だったり....今年は紛れもなく本作がそれに当たると思う。

nenometal.hatenablog.com

nenometal.hatenablog.comそう、もう半年経てばアンとアイナが過ごした暑く儚げでキラキラした季節がやってくる。8月31日になっても、いや、9月1日以降になってもまだまだ全国で上映されている事を願ってやまない。

 

2.セカンドフィーリング

本章は2回目を元町映画館にて鑑賞した際のフィーリングを中心に述べていきたい。((2回めはここで観ている。

))もはや本作のストーリーを知ってしまっているので今度は登場人物の情緒的な部分に気持ちがフォーカスされる。

とにかくこの時アンの大人になる事への不安や焦燥をさながら具現化したようなあの表情が切なかった。あとは何でも屋である鶴亀商店のババの「今はね、夢見たって良いんだよ」などなどのぶっきらぼうながら愛に満ちた台詞に共感し眼から洪水が溢れ出たものだ。
ここでもうハッキリ言うが『アルプススタンドのはしの方』や『サマーフィルムにのって』に匹敵する歴史的な青春もの映画の傑作だと断言できる。いわゆる「傑作」という言葉はあまり軽はずみに使ってしまうとその説得性が薄れるのであまり使わないようにしてるのだがもうこれはやはり傑作である。 あと気になったのがアンのお姉さんで、お母さんが朝ごはんの時にアンは「絢子」と呼び捨てで、お姉さんであるカナには「ちゃん付け」だった点。

そういえば「安藤絢子(あんどうあやこ)」というフルネームは姓と名が同じaの母音で何となくアンバランスな気もするし、これは割と複雑な家庭の事情があったりするんだろうか?

*3

あと鶴亀商店のババと図書館司書である佐田愛菜との10年前の関係も極めて気になったりする。これはかなり妄想がかった深読みになるがあの二人も実は同一人物だったりして。

いや、まさかそれはないか現実に両者共に存在しているのだからなとも思ったりして。

 

3. サードパースペクティブ

そして3回目をみに行く機会に恵まれた。この日、3月9日の12:50の回は京都アップリンクにおける武田かりん監督の舞台挨拶回だったのだ。

上映後、『ブルーを笑えるその日まで』への思いや拘りだとかを真摯かつ真剣に語る様子に物凄く心を打たれた。正に前章で掲げたように、12/14の吉祥寺アップリンクでの舞台挨拶を彷彿とさせるようだった。 

それにしても話はズレるが、私は個人的にここ5年ほど舞台挨拶には割と行ってきた方だと思うが人数だけやけに多くてウケ狙いのトークショーに逃げるケースが多すぎると思っている。これは由々しき事態でせっかく感動して自分で物語を反芻しながら感想などを綴ったりしたいので登壇者たちの楽屋オチトークショーでこちらの感動がズダボロになる瞬間に何度も立ち会ったことがある。これは長くなるから具体例などは置いといて映画ファンは誰しもそんな経験があって意外とそんなもオプションなどは望んでいないのではないか。
その作品に対して監督がいかに作品に賭けててどのシーンに力を入れたか、何を受け取って欲しいかコンセプトをガッツリ語ってもらえれば十分、てのを改めて武田かりん監督の舞台挨拶で実感した。これぞ舞台挨拶です。そしてこの時この映画の中のラストシーンでアイナの呼びかけに少し微笑んだ後の安藤絢子があれから約10年経て自分の好きな事を見つけ映画監督になってここに立っている続編に対峙しているような錯覚すら覚えたものだ。はっきり思った。

正に安藤絢子(アン)とは武田監督その人だったのだ。

 あのアイナとアンが二人して川に飛び込むシーンは何度観ようがヒリヒリするのだが、これは2回目ぐらいから思っているんだけど、一旦水中に沈んで水面から顔を出した時にアンの制服の赤リボンがふと頬にかかるのだけど、それがちょうど赤い涙が伝ってるように見えるのだ。これは熱い血潮煮えたぎる感情をぶつけられる友人に出会った事への象徴ではないかと勘繰ってしまう。
 これは監督に聞いた所、3テイクを一気に無我夢中で撮ったらしくてそういう風な演出できる余裕は無かったそうでこれは晴れて私の妄想だったことが判明した訳だけど(笑)それにしても様々な考察が可能な傑作だと思う。あと本作に関して「不登校の中学生・高校生達へのメッセージ」というものが大きな主題となっていて、そこを感想で強調するのはとても大事だと思うけど私はむしろエンターテイメント方面のサブカル視点を軸に論じていきたいと考えている。単純に個人的にそっちの方が面白いってのもあるし、こういうメッセージ性を持った作品ほど論点を多角的に散らばらせていく方が普及という意味でも重要だと思うから。あのAnlyがここ最近ブレイクしたのもブレイク寸前に『manual』というブラック校則撲滅へのメッセージを綴った楽曲をパフォーマンスしつつも別に「社会派アーティスト」である事に固執せず、あくまでエンタメフィールドのポップミュージシャンとしてのスタンスを維持したってのも大きいからだ。

本論から外れるのでこの辺りに関しては以下の過去記事で述べているので参照にされたい。

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あとこの舞台挨拶では本作が自宅で気ままにアクセスできるようにフィジカル(配信)化についての可能性への質問があったがもうこれは絶対やるべきだと思う。それについては不登校気味の子どもたちが映画館、ましてやミニシアターなぞに行くのは敷居が高すぎるゆえ自宅で観れるという利点もさることながら、こうしてパンフレット二冊並べてみるとある面白い点に気づく。

なんとなんと右側のアン1人の世界線とアンとアイナの2人の世界線とが一つに繋がっているではないか。それにしてもこの仏を並べた写真、よくよく見ると雲の流れや建物やガードレールなどがつながっているのだが安全ミラーが不自然な距離であったりとあと道路のマンホールなどもあったり無かったりと不思議な点が多かったりもする。これらの事実がどういう事を示唆しているのかは現時点では保留だけど色々と検証してみるのも面白いと思う。

それより何より、深い検証などは置いとおいて、この二つの遷都線が繋がったかのようなこの写真、何よりもDVD等の表裏ジャケットにピッタリではないか。表ジャケットが上の写真でディスクが入っている中ジャケも透明仕様にして全て繋がっている風な仕様が可能じゃないか。しかも下の写真のように中ジャケでアンが筒を覗いてディスクの穴からアイナの顔がひょこっと見えるみたいな仕様も考えられたりして。

4. フォーカス
①ハルカトミユキ『Vanilla』比較論

あと音楽関連で個人的にツボったのは個人的に「ハルカトミユキ」という今も尚活動している2人組の女性バンドにハマっていた時期があるのだが、彼女らの初期の名曲『Vanilla』のMVや歌詞世界とのシンクロニシティを感じさせた点である。


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例えば
❶「屋上」に二人の女性がいて上から下を見たりする場面があったり、MVでは煙筒や映画ではダイナマイト(事実上は花火)をかざすシーンだったり

❷「カレンダー」に主人公が終わりの日に向けてバツをつけていくシーンが全くリンクしてたり

❸「水」の中へと女性が入水するシーンがあったり(MVは海で一人だけ、映画は川という違いはあるけども)

❹そして極め付けはMVの方の歌詞を引用すると、

許せない
許せない
許してあげたい
あの頃の僕たちを

(『Vanilla』ハルカトミユキ)

というフレーズがあって正にこれはアイネのというよりも彼女の現在の姿である図書館司書・佐田愛菜の心象風景ともリンクする部分がとても大きいと思ったりして。

兎にも角にもこの曲の世界観が好きな人はハマると思う。
きっとあの曲も本作も【過去の自分と向き合い、過去の自分に対して現代の自分が優しく肯定性へと導き出し、過去の自分がそのメッセージを受け取るといったようなrecursiveness(回帰性)】といった意味においてはものすごく共通してると思うから。

②劇団アンティークス『時を超えて』比較論

 

あと『ブルーを笑えるその日まで』は去年末に下北沢711で観た舞台『時をこえて』とリンクする事に気づく。*4

antiquesvintage31.wixsite.com

本演目について述べておくと

なまえがなかったあたしになまえをつけてくれた
あなたをずっとわすれない
記憶をもたない少女が「この世界」に存在した
数十年に渡る「ものがたり」

という紹介文からもわかるように「けけけ!」という謎の言葉しか話さない不思議な少女がとある事情を抱える女性の元に娘として暮らし始め、その娘も言葉を覚え成長していき本当の家族のように心通じ合う....という話で【血の繋がりだけが家族じゃない】という趣旨の演目は今まで数多く観てきたけどこれほどヒリヒリとしたリアリティとどことなく漂うフェアリーテイル感とのバランスが絶妙にブレンドされつつスッキリした涙でエンディングを迎えられる作品はなかった。

 とにかく心の何処かに闇や苦悩や愛情の欠如を抱えている人々に近づいてはポッと光を灯してくれる不思議な存在である「さっちゃん」がどうにも「アイナ」と重なるのだ。そうなると更に本作のキーワードである「万華鏡」がこの演劇のキーワードである「押し花」とも自然と重なってくるような気もする。どちらも美しいものを時を超えるかのように閉じ込めておくオブジェクトとしては共通している。

 更に特筆すべきは当初私は「さっちゃん」という存在は家族愛を失った人にしか見えたり聞こえたりしない幼い日々の自分そのもののような【座敷わらし的な子ども】として解釈していた。その証拠になっちゃんの友人のお母さんが「私には(もう大人になってしまったから)さっちゃんは見えないんだね。さっちゃん、有難う。」などというシーンがあるからだ。しかし考えてみるとこのさっちゃんの母朋美はもう既に大人なのだから矛盾が生じる。朋美は実の母ではなく海辺を彷徨っていたなっちゃんを身寄りのない可哀想な子供だと思い一緒に暮らすことにした血の繋がりのないみなし母となるので到底座敷童子とは言い難い。そこで私は座敷童子ではなく冒頭で心の何処かに闇や苦悩や愛情の欠如を抱えている人々に近づいてはポッと光を灯してくれる存在としてさっちゃんを拡大解釈することによってこの矛盾を打ち消した。そして『ブルーを笑えるその日まで』に話を戻そう。本作ではアイナは図書館司書「佐田愛菜」の幼き日の分身だった訳で愛菜の本体は成長したのだけれど子供の頃の心はまだ中学校時代の屋上に置いてきぼりだったと捉えるのが妥当である。そしてこの論理を『時をこえて』にも当てはまると考えると見事に先ほどの拡大解釈の必要性がなくなるのだ。朋美は幼い頃から実の両親から家族愛を受けることなく(実際にDVの義理に父に悩まされ殺人を犯して逮捕されている)その空虚な心は小さい時のなんとなく記憶にある海へと置いてきたのだ。そこでその時の子供だった頃の友美の姿が「さっちゃん」として具現化したのだと考えると拡大解釈の必要はなくなる。まあこれが正解かどうかは不明だが、別作品ながらも演劇の疑問が映画によって何らかの糸口が見える気がしてハッとしたものだ。演劇と映画がジャンルという垣根を超えてリンクする正に奇跡の瞬間だと思う。

そう、万華鏡の光とは、単に中のカラフルなビーズのようなものがくるくる回して様々な光景を構築するだけでなく、それと同時に過去も現代も時間軸をもクルクルとキラキラと回転させ写像する事ができるのだ。そうして過去のアイナから現代の愛菜を通じてアンへとメッセージが行き渡せることができるのだ。そして本演目のキーである押し花も同じ。花の最も綺麗な瞬間をまるで永遠の時間のように閉じ込める魔法があるのだ。本作も保年もくもオカルト現象やらタイムリープのオプションなど使わずにこの時間軸を超える点にこそこの物語のコアがあるようにも思ったりもする。

③『水槽

そういえば、先ほどハルカトミユキの曲で思い出したが、彼女らのもっと初期の曲には『水槽』というタイトルの曲もあったなぁ、ということに、そしてこの曲の一節が本作とものすごくシンクロする事にも気づく。

 正にアンが小さな川の中に飛び込み、泣きながら自分の苦しみをアイナに打ち明け、心の中にポッカリと空いた穴を埋めようともがいている様子はさながら水槽の中の金魚そのものである。これは正に思春期における大人になる事へのアングストなのだろうか?

そこに言葉など、ましてや哲学など無力である。
ただこれだけは言える、いつかきっとそんな青春が醸し出す憂鬱を、ブルーを笑いとばせる日がきっと来る。

そこでタイトルへと辿り着く。

『ブルーを笑えるその日まで』
最後に本作の核の部分とシンクロするような『水槽』の歌詞の一部を引用して本レビューを締めくくりたい。


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敵と味方と君と
世界中にそれだけ
言葉なんて空っぽだった
哲学は風の中

部屋は水槽のようだ
音も消えて
部屋は水槽のようだ
揺れて

たったひとつ欲しいだけなのに
たった1つ守るだけなのに
大人になる時は
少しだけ痛いよ
痛いよ
痛いよ

こんな静かな夜に君
はじけて溶ける緩いカーブを描き
溢れ出すように泣いて

 

『水槽』ハルカトミユキ


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*1:本記事はシアターセブンで鑑賞した後にfilmarksでレビューしたものに加筆修正を加えたものである。ブルーを笑えるその日までのネノメタルのネタバレレビュー・ 内容・結末 | Filmarks映画 https://filmarks.com/movies/109995/reviews/169287331 #Filmarks #映画 #ブルーを笑えるその日まで 

*2:劇団四季『夢から醒めた夢』に関して

ja.wikipedia.org

*3:この辺りの謎は妄想で、3回目の時に本作を13回ほど観ている方に聞いて分かったのだが姉妹のエピソードもあったかもしれないとの事。実の姉妹で、心開いてくれる姉、と心閉じた妹と母親は認識していてその差が呼び名として出ているのかもしれない。

*4: