NENOMETALIZED

Music, Movie, and Manga sometimes Make Me Moved in a Miraculous way.

これぞ、#上西雄大 のアメイジング・グレイス〜『#コオロギからの手紙』爆裂レビュー!

1. Comprehensive Review

Amazing grace
how sweet the sound
That saved a wretch like me

I once was lost
but now am found
Was blind but now I see

驚くばかりの神の恵み
何と美しい響きであろうか
私のような者までも救ってくださる

道を踏み外しさまよっていた私を
神は救い上げてくださり
今まで見えなかった神の恵みを
今は見出すことができる

 

'Twas grace that taught
my heart to fear
And grace my fears relieved

How precious did
that grace appear
The hour I first believed

神の恵みこそが
私の恐れる心を諭し
その恐れから
心を解き放ち給う

信じる事を始めたその時の
神の恵みのなんと尊いことか

 

Through many dangers
toils and snares
I have already come

'Tis grace hath brought me
safe thus far
And grace will lead me home.

 

これまで数多くの危機や苦しみ
誘惑があったが
私を救い導きたもうたのは
他でもない神の恵みであった

 

Amazing Grace』より

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....時は2月8日の大阪福島駅から徒歩10分ほどの所にあるABCホールまたまた今回の記事は前回同様、「映像劇団テンアンツ」に関しての記事である。今回は舞台『コオロギからの手紙』である。この日は17:30開演の上演に来たのだが、休憩時間を挟んで3時間半(「18:00〜21:30」ぐらいまで)という個人的演劇観劇時間としては史上最長の演目である。そして、個人的に演劇に関して昔から思ってるんだけど、時に人生観を突きつけてくる映画や、直に音像を体感できる音楽ライブには各々そこでしか味わえない魅力があるが、それらとは違って直に人生観に向き合う事を余儀なくさせる演劇は持って帰る「何か」が特別だと思う。

だから他のエンタメ以上につい気合を入れて観てしまうし、映画やドラマ以上にその演目がいかなるエンディングなのかについてはものすごく重要視してしまうのだ。

ちなみに演劇は大きく分けて2つのパターンに大別される。

①ハッキリ「以上!終わり!」みたいに幕が下がるパターン

②少し曖昧にしてポーンとこちらに投げかけるパターン

である

で、圧倒的に多いのが意外と②。もし演劇のコアが余韻だとするならば結論部分はあなたの中で物語を育てて下さいって事で確かにこちらの方が余韻が残る気がする。そして今回、正にそういう事についてさらに深く考察させられるべき演劇に出会った。

それが今回のテーマ、『コオロギからの手紙』である。

本作はそんなエンディング論を最終章で深く考察するとして『コオロギからの手紙』を鑑賞しての余すことなくありのままの思いを書き綴ったネタバレありきのダイナマイトにニトログリセリンをぶち込むような爆裂レビューである。

構成は以下の通り。

 

「これぞ、上西雄大のenclyclopedia〜『コオロギからの手紙』爆裂レビュー!」

The Table of Contents

1. Comprehensive Review

2. Focusing Review

 Focus(1);Amazing Grace

 Focus(2);Desperado

3. Consequental view

10ants.jp

Rough Story

時は昭和37年の神戸、主人公の神木(こうのぎ=通称コオロギ)は向かう所敵なしって感じのとても喧嘩の強い893である。たが、その肩書きの割には中華料理屋の親娘であるとかたばこ屋の婆さんであるとか一般市民には慕われている。
ただ、そんな彼にもコンプレックスがあって家庭事情から十分な教育を受けておらず学校に行けず文字が読めない、いわゆる「失読症」なのだ。

そんなある日、小学校教師の聡子はスリから助けられたお礼にと、灯台の見える教室(灯台教室)にて字を教える事に。

最初は鉛筆の持ち方すらままならぬコオロギであったが、次第に文字を覚え始め、徐々に聡子に好意を抱くようになる。そしてその好意はコオロギだけでなく、聡子にとっても同じこと。好意はやがて「恋心」に発展していくのだが、「893がカタギの人間と一緒になることはできない。」

更に、コオロギが所属している893組の組長はなんと密かに実の息子(豊)よりも度量があって強いコオロギに跡を継がせようと思っているのだ。

それをなんとなく察知している息子は当然コオロギに八つ当たりするようになる。

と言ったものだが、この「コオロギ」の名を見て熱心なテンアンツファンならずとも『ねばぎば新世界』を観た事のある人なら誰もがあの「喧嘩っ早いが人情に熱いあの男」を想起するだろう。そう、間違いなくほぼほぼあのコオロギの前世の姿、というのもちょっと違和感あるので、もっと分かりやすく言えば手塚治虫の漫画作品に登場するような、時代背景問わず「鼻のデカい男」と言うプロトタイプとしてお茶の水博士(from『鉄腕アトム』)と猿田(from火の鳥鳳凰編』)が出てくるのと同じような感覚で、昭和37年・神戸を舞台に「喧嘩っ早いが人情に熱いあの男」さながらあのコオロギが出現している状態、と言った方が分かりやすいのかもしれない。


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そして、他の上西雄大監督作品との関連で言うと、上から金物が降ってきたり、スリッパで頭叩いたりする場面も多く見られたりするが、それは『西成ゴローの四億円』にも散見されたような吉本新喜劇ナイズドされたお笑いの要素も舞台上にふんだんに盛り込まれている点で共通しているのかもしれないし、或いはコオロギがズダボロになりながらも献身的な人間愛を貫き通す姿など『ひとくず』における上西雄大作品の全てのエッセンスがここに凝縮されている。所謂本作は【上西encyclopedia】と呼称すべき舞台演劇だと定義しても良いだろう。

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更に上記で掲げたポスターなどのビジュアルイメージから人によっては「演劇」というよりは「古き良きお芝居」を想起される人もいるかもしれないが、実はそういう側面はあまり無くてこの3時間15分もの長丁場の時間を一瞬に思わせるほどに場面転換も割と多く、細かい動きと音の合わせ方などのテンポの速さは個人的に色々観てきたキャラメルボックスなどの演劇に近い。じっくり作品を観て享受するというよりも綿密に練られた物語構成を体感する感じ。

そして、先ほど主人公コオロギのキャラクターを説明する上で手塚治虫を例示したが、昭和37年というこの舞台上の時代設定を超え、突如コオロギが昭和37年神戸という設定を超えて「この芝居の主役はオレや。」などの割と客観的な台詞も放たれたりたりする。これは手塚漫画に顕著だった突如コマ割りから外れるメタ的な視線も多用されている事も多いに貢献していると思う。

こういう手法は映画などの映像系統作品だとわざとらしくなりがちなので舞台演劇では物凄く効果をなす手法だと思う。

で、そもそも私は本来大所帯の群像劇的な演目よりも、日常の何気ない風景を描いた少人数の演劇を好む傾向にあるのだが、そんな私が本作3時間15分をあっという間に感じてのめり込むことができた。その理由は

①前半を喜劇的な展開、後半をシリアスな人間ドラマ寄りにした飽きさせぬ構成
②①の中でそれぞれの役割を全うさせるにふさわしい役者陣の演技力
③前半を昭和歌謡曲、後半をアメリカを中心とした音楽などによる演出効果

が本演目には組み合わされており、これらの織りなす説得力が半端ないのだ。いや、そもそも本作に限らず他の映画作品においても上西雄大というか、劇団テンアンツはいつもそんなエンタメの醍醐味を教えてくれると思う。

 更にこの続きについて考察しよう。

とうとうカタギに戻ることを決意したコオロギはとうとう長年彼の面倒を見てきた組長の元に説得に行く。だが、親分は話を聞くまでもなくもう彼の心を見透かしてて
「お前はもうヤクザの目ではない。(中略)お前には惚れた女がいるんだろう。でもな、カタギの道に戻るには幾多もの困難があるだろうが。これが餞別だ。」と言って現金の入った袋を渡す。だが、話はそう簡単に済む筈はなくて、前々から彼に反感を抱いていた組長のバカ息子・豊がそれをそれを不服に思い(てかコオロギがこのままヤクザとして残ったとしてもコオロギより無能扱いを受けているので反感は抱いているだろうが。。。)とうとう彼との決着を挑む。
指詰めろや!!!」と絡んでくる。

コオロギもせっかく親分からカタギになる許可もらったばかりで、全く彼とは闘う気は無いのだが「殺してやる!!!」もうバカ息子は完全にエンジンかかっててて、もう本気だ、殺されてしまうじゃんか。
仕方なしに彼を殴り合いの大決戦になる、しばらく殴り合い蹴り合いが続くんだけど、意外とというか力の差であっけなくバカ息子・豊はやられてしまう。
よし、これでようやく先生の待つ灯台教室に急ごう。
そう思った瞬間なんとまあセコいことにバカ息子が密かにこおろぎの背後に回ってきて手に持ってるナイフで背中を「ぐさっっっ!!!!!!!」と背中をぐさりと刺されてしまうのだ。
コオロギは井戸に落とされて「卑怯じゃねえか!!後ろから刺すとは」

当然コオロギはぐったり….。
「ああ、先生、灯台で待ってるだろうな。お会いしたかった…..。」

そして「俺がカタギになって働くから一緒に暮らさねえか。」

聡子先生にあの言葉の続きを先生に伝えたかった…。」と言っておもむろにノートと鉛筆を二本取り出し聡子先生から教わった「お箸の持ち方」からの「正しい鉛筆の持ち方」へすり替わるやり方で鉛筆を握って、あの先生への想いをボロボロの体でしたためようととする。
そして、絶妙にタイミングでバックに流れるのはアメリカ第二のアンセムとまで言われる『アメイジング・グレイス』が流れるのだ。
「アアアアア〜メイジン' グレ〜〜ス♪」
あの悲しくも壮大な旋律のメロディと、コオロギのやるせない心情とがオーバーラップしてビシビシと伝わってくるのだ。曲が終わらないうちに流れ行くたびにコオロギの背中に伝わっていく血の量も増していくのだろう...同時に彼はばったりと倒れてしまう。

❶使用曲;Amazing Grace


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❷使用曲;Desperado


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そこでこの場面は一旦暗転して終わる-----んだけれども、ここまで来て私はコオロギは「100%もうあの世へ行ってしまった。」ものだと確信したし、私のみならずとも初めて本劇を見た他の観客は誰しもそのように思った事だろう。

だって正にそれを裏付けるかのように、まるで遺書さながら手紙を受け取ってコオロギ自身の声が聡子先生に読み聞かせるように重なり、バックで何と季節外れのコオロギ(こっちは虫の方ね)の鳴く声が聞こえてきた場面があるではないか。

そこで「きっとコオロギさんも見守ってまっせ。」と老人が語りかける台詞に思わず納得。

そして、それを聞いた瞬間私の心の中にスーーーーーっとタイトルの意義と意味とコンセプトがスポンジに水が浸透するように馴染んできたのを覚えたものだ。
そうか!だから「コオロギからの手紙」なのねと。
単にこの「手紙」というのはヤクザ者であるコオロギが字を覚え瀕死状態で愛する者への想いを綴った「私信」であるだけでなく、虫としてのコオロギの鳴き声を人間としての彼に見立てる事で、誰もが心の中に抱いている「誰かに自分の思いを伝えたい。」という普遍的な現象へと昇華するのになるだろうし、あのコオロギの美しいコロコロとした鳴き声が、先生のコロコロとなる笑い声にもオーバーラップするような気もしたのだ。*1

人に思いを伝えそれを享受する事の大切さ、その象徴としてのコオロギ、これは何と素晴らしい結末なんだと納得していたのだ

ところが…..である。
なんとコオロギは「生きていた」のだ。

もう一度言おう。なんとコオロギは「生きていた」のである。
しかしその後、実は井戸に閉じ込められた彼は何とか生き延びていてというか、そのヤクザの子分が井戸から引き上げて彼を助けたって言う状況を借りているんだけれども、結局は生き延びていて、そして彼を刺したバカ息子の方が逆に井戸水に落とされて死んでしまっていたのだ。ちなみに彼の死体は後に白骨死体化されて発見されるのだがどれぐらい経ってんのだろう。大体夏場で一週間、冬場で一ヶ月という事なんだけどコオロギの服の感じからすると秋以降(10月〜11月)ぐらいかな?

そしてその何とかコオロギは生き残ってて、足にダメージをうけてそれを引きづりながらもダンホール搬送などを主としたある運送会社で働いてる様子。*2 そうこうして、聡子先生に弟子が気を使って運送会社の居場所を教え、もう会うことはないだろうと思われた聡子先生と最後の最後に再会を果たすのである。そして、最初は照れまくっていたコオロギはあの手紙で綴ったあの約束の言葉、いや愛の告白と言っても差し支えないであろう、それを読み上げる....そして先生をぎゅっと抱きしめて、この3時間15分に及ぶ物語はとうとう幕を閉じるのだ。

「これはなんと完璧な感動のストーリーか!!!!!」実際私もそう思ったし、これまでの3時間過ぎた長丁場に渡る時間が必然のように、美しく、最も理想的な形で昇華・収束していった事に対して、希望の光を見出されたとすら思った。まさに劇中でかかっていた「見上げてごらん夜の星を」のごとく、この後もうスッキリ&サッパリとした気分でABCホールを後にした。この後、コロナ禍という事情ゆえに、役者達との面会タイムは勿論なかったのだが、そんな事どうでもいいじゃんと思えたほどだ。だって上西雄大作品の中でもエンタメとそれと裏腹にある絶望とうまく融合させて最後は壮大なハッピーエンド締め括られたのだから。

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だが、そう思ったと同時に、どことなく違う感情も私の中で芽生えたのも事実だったのである次の章ではなぜ私がそう思ったのか、別の視点で検証してみたいと思う。

 

2. Focusing Review

なぜ満足感とは違う感情も芽生えたのか?

だってよくよく考えてみてほしい。私はこの結末の10分ほど前の場面で

バックで何と季節外れのコオロギの鳴く声が聞こえてきた場面があるではないか。

そこで「きっとコオロギさんも見守ってまっせ。」と語りかける台詞に思わず納得...

....と書いたようにそのセリフに私は逐一ものすごく納得していたではないか。

しかも冒頭で聡子先生の「昔、コオロギという人がいました」的なまるで故人を思うようなモノローグが残っていたりもして回想録となっているのかとも思ったりしたし。

ハッキリ言ってしまうと、もしこの物語が最後に希望の光を導くものである事を志向するものであるならば、別に彼は必ずしも生きていなくてもよかったのではないかとも思ったのだ。

しかも、これも先述した通り、この場面の時、あの曲の切なさとコオロギの虚しさとがシンクロするかのようにAmazing Graceが流れてきたのは前述した通りだが、あの曲のどこか壮大だけど、人生全体を俯瞰で見るようなメロディを宿した曲調であるとも同時に感じてて、それがどこか死んで行く者を送る「鎮魂歌(レクイエム)的なニュアンス」「敗北を喫した者の気持ち」とを同時に感じてしまったのだ。

我が思いが正しのかどうか本曲における歴史的な側面を検証してみよう。

Focus(1) Amazing Grace

*3

作詞者はジョン・ニュートン (John Newton)。

作曲者は不詳。

ジョン・ニュートンは1725年、イギリスに生まれ、商船の指揮官であった父に付いて船乗りとなったが、さまざまな船を渡り歩くうちに黒人奴隷を輸送するいわゆる「奴隷貿易」に
手を染め巨万の富を得るようになった。

当時奴隷として拉致された黒人への扱いは家畜以下であり、
輸送に用いられる船内の衛生環境は劣悪であった。

このため多くの者が輸送先に到着する前に感染症や脱水症状、
栄養失調などの原因で死亡したといわれる。

ジョンもまたこのような扱いを拉致してきた黒人に対して
当然のように行っていたが、1748年5月10日、
彼が22歳の時に転機はやってきた。

船長として任された船が嵐に遭い、非常に危険な状態に陥ったのである。

今にも海に呑まれそうな船の中で、彼は必死に神に祈った。
敬虔なクリスチャンの母を持ちながら、彼が心の底から神に祈ったのは
この時が初めてだったという。

すると船は奇跡的に嵐を脱し、難を逃れたのである。

その後の6年間も、ジョンは奴隷を運び続けたが、1755年、ジョンは病気を理由に船を降り、勉学と多額の寄付を重ねて牧師となった。

そして1772年、「アメイジング・グレイス」が生まれたのである。

この曲には、黒人奴隷貿易に関わったことに対する深い悔恨と、
それにも関わらず赦しを与えた神の愛に対する感謝が込められていると
いわれている。

そう、ここにコオロギにおけるヤクザとしてのステイタスから浮かび上がってくるマイノリティ感は18世紀におけるこうした黒人奴隷たちの姿とどことなくオーバーラップするのだろう。そして本曲を聴いた時に、何となく感じていた「敗北を喫した者の気持ち」もそうしたコオロギ自身の幼少期からの教育的機会に恵まれずに文字を読めずにいて後年大人になってもそれを馬鹿にされ続けた厳しい現実とも重ね合わせられよう。

そしてさらに重要な事にこのAmazing Graceとは、「罪をの赦(ゆる)し希望を望む唄」であることも忘れてはならない。

そして本演目の中でのコオロギも聡子先生への手紙をしたためる事によってれまでのヤクザとしての悪行を精算すると同時に、彼女の今後の人生に対して幸福と平和を愛をもたらすよう祈りを捧げる効果があったのだと思う。それにはコオロギはこの世から去ってしまって生を全うする状況になってしまう方がしっくり来るのではなかろうか。

だから本曲が本演目の本シーンに使われたのは必然であるとすら思ったものだ。

 

Focuse(2) Desperado

そして、もう一つのキーとなる曲がある。紛れもなく1970sを代表するアメリカのロックバンド、The Eagles1973年に発表したセカンド・アルバム『Desperado(邦題;ならず者』に収録されているタイトル曲『Desperado』である。

では本曲の歌詞に一部の本演目のシーンとオーバーラップする部分を引用する。

*4

Your prison is walking through this world all alone
君はそんな檻に閉じ込められたままでこの世界を独りで生きていくのかい

Don't your feet get cold in the winter time?
君の両足はちゃんと冬の寒さを感じられているかい?

The sky won't snow and the sun won't shine
空からは日差しも注がれない雪さえも降らない

It's hard to tell the night time from the day
昼と夜の区別もつかないような状況で

You're losin' all your highs and lows
君は人生の最高の瞬間も最低な瞬間さえも味わえずに生きているのさ

Ain't it funny how the feeling goes away?
そんな何もかもを捨てて生きていくなんて何かおかしいって感じないのか?

Desperado, why don't you come to your senses?
君ってどうしてそうなんだ?そろそろ気付いてもいい頃なんじゃないか?

Come down from your fences, open the gate
そろそろそこから降りてここまで歩み寄ってこいよ

It may be rainin',
雨が降るかも知れない

but there's a rainbow above you
けど君の上にもいつか虹がかかるはずさ

You better let somebody love you
(Let somebody love you)
君が誰かに愛されて生きていくのもいいんじゃないかって思うんだ

You better let somebody love you
君も誰かに愛されて生きていくべきだって思うんだ

Before it's too late
手遅れになってしまう前に

この冒頭の、Your prison is walking through this world all alone
(君はそんな檻に閉じ込められたままでこの世界を独りで生きていくのか)

と言う部分は何もアウトローとして生きているコオロギのみに当てはまる状況ではないことがわかる。むしろこれはお嬢様として育てられ、常にボンクラ限定の見合い相手ばかり押し付けられる聡子先生にも当てはまるのではないだろうか。両人にとっても「昼と夜の区別もつかないような人生の最高の瞬間も最低な瞬間さえも味わえずに生きている状況」なのだろう。

だがそれはどうしたら解決できるのか?上記の歌詞で出てくるのは「雨」「虹」そして「他の愛すべき誰か」こそが大事であって明らかに本演目上の設定になぞらえていくと、これは別に彼ら二人にとって共通する世界を築いていくのではなく、むしろコオロギサイドが一歩離れた地点から聡子先生へとメッセージしていく、正に「手紙」の役目を果たしているようにしか思えないのだ。もう一つこの『Desperado』が手紙としての役割を果たしている説を唱えるには決定的な証拠があって、本曲は実にカバーされているアーティスト数が半端ないのだ。正に1970年代のリリース以降、時代や国境を超えてを多くの人々にカバーされている本曲『Desperado』自体も手紙のような人から人へとカバーによって伝達していく役割を担っていると結論づけられよう。

*5

 

3. Consequental view

さて、ここまで1章にて『コオロギからの手紙』でのクライマックス・シーンまでの概要と主観、2章にてエンディング・シーンとのそれ以前の主に音楽にまつわる演出との整合性について概観したがここでハッキリした事は「コオロギは生き返るべきではなかった」のではないだろうか?或いは言い方を変えると、ラストシーンで「二人が抱きしめあって幕を閉じる結末部分はあまりにも物語的整合性を指向しすぎて美しすぎた」のではないかとも思ったりもするのだ。

繰り返しになるがあの手紙の内容が

「コオロギ(と言う一人の男)からの(沙都子という女性に送られたラブレターとしての)手紙」

コオロギ(と言う一人の男の魂が昇華したことによって全ての生きとし生けるものにも派生する思い)からの(沙都子のみならず全ての想いを受け取るものとしての普遍的な)手紙」

として解釈するには十分すぎるほど『Amazing Grace』であるとか『Desperado』がその役割を果たしていたように思うのだ。そして、私は第一章で

最も理想的な形で昇華・収束していった事に対して、希望の光を見出されたようでとてもこの後もうスッキリとした気分で劇場を出ることができた。

と言ってるんだけど、果たして演目としてはハッピーエンディングだったのだけれど鑑賞者の私見を育むという意味では完全にハッピーをもたらしたのだろうか?

ハッキリ言って私には必ずしもそのようには断言できないのだ。

 

例えば私は2021年7月10日、ナッポスユナイテッド系列作品の『容疑者χの献身』を観に行った時に思ったのだがあの作品では原作同様、

最終的に殺人を犯してしまった靖子に想いを寄せる数学教師・石神が(ある種)の純粋な愛を貫こうとし完全隠蔽を計画していたのだが、最後の最後で予想外のことが起き、靖子が現れ、自分の罪を認める。石神の計画は全て無駄になり、彼は獣の咆哮のように泣き叫ぶ」

という場面で終わるのだがあの結末があるからこそ、ここまで読めば、バッドエンディングで終わったものと思う人もいるだろうし、明らかに道義的に逸脱したは悪質な行為がトリックの手段として淡々と描かれている事に多くの議論を呼んでいるのだ。

...にも関わらず私はこの結末にむしろ希望の光を感じたし、現に原作発表時より評されている「感動的なラスト」と近い思いを抱いたのだ。

それはなぜか?ズバリ、物語の続きが、登場人物の魂が宿り、観る者の心に見事に継承されたからである。あのラストが鑑みて当然靖子は殺人罪に問われるものの正当防衛でもあった訳で行った罪さえ償うことができれば一生牢屋生活をする事はない筈で、その後石神と...というハッピーエンディングをも想像できたからである。一体その後どうなったのか、などそこをハッキリと明示していないからこそ人によってどう解釈されるかはまばらであって、むしろそこを面白いと感じた。

少なくとも私はこの演目は「希望の物語」と受け取った。

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そう、「希望の物語」と聞いて思い当たる節がある。イギリスで2014年に製作された『ジンジャーの朝』という60年代第一次世界大戦時を主体とした作品だ。詳細なストーリーはここで割愛するが、友人と主人公との間にトラウマ級の超ヘヴィーな事件が生じ、友情と間に亀裂が生じてしまう。これがまあ酷すぎてもはや修復不可能なのだ(笑)。そこでジンジャーは親友に対してお互いの人生観の違いを感じ、彼女とは訣別し、最後に各々の人生を生きようと決意するといういわば青春ヒューマンストーリーとでも称すべきドラマである。


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で、本予告編を見て頂くだけでも分かるように、そういうヘヴィーさも感じつつも全体的にどこか最後のクレジットに表記されているような「希望の物語」と呼称すべき「何か」を感じ取る事ができないだろうか?

 更に違う事例を言うと、以前以下で提示する松本大輝監督による映画『コケシ・セレナーデ』のブログ記事において、同じ音楽家としての数奇な運命を辿った主人公同士を比較する上で演劇集団キャラメルボックスによる『無伴奏ソナタ』も例示した。この演目においても主人公は拍手に包まれて幕を閉じる、と言う一応は感動の最中で終わったりするのだけれど、彼の指や喉などあらゆる音楽をやる上で特に必要なものを奪われ、恐らくはその後、天涯孤独な生涯を全うする事が示唆されている。

にも関わらず我々の心の中にスッと希望の光が灯ったような気がしたのはこの物語も同様に登場人物の魂が宿り、観る者の心に見事に継承されたからだと思う。

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*6

さて、ここで話を『コオロギからの手紙』に戻そう。

では果たして物語の続きが観るものの心に継承されコオロギが、聡子先生の魂が宿ったのかどうかと聞かれれば正直わからないし、人にっては全てを受け取って大感動の嵐、という人もいるだろうし、私のようにこの2月11日という祝日全部使ってはあーこーだ考えて12500字以上も使ってここに色々書き殴っているこういう捻くれた者もいたりする。ただ、間違いなく言えることは多分、上西雄大氏もコオロギが『Amazing Grace』とともに朽ち果ててしまった結末も頭の中にあったのではないか、と思ったりする。

だってそうした方がコオロギらしく主役らしくカッコ良く物語の一部として締め括られるではないか。(あ、あのままだと負けた事になるのでバカ息子も犬死にさせないといけないけどね。)でも敢えてそれをしなかったのはあくまでコオロギをカッコいい主役、としてキャラクタライゼーションするのではなく、カッコ悪さもないまぜにした生身の1人間として描きたかったのではないだろうか

そしてああいう結末に持っていったのは物語としての流麗さではなく、彼自身の優しさから派生する観ている者へのカーテンコール的なサービス精神までもあの舞台作品の一部としてあえてブチ込みかったからというか。さらに、あのエンディングは意味深なものを感じてて、それこそ『さらば八月のうた』ラストが、死者含めて皆次々に集まって記念写真に収まる場面で幕を閉じるのと重ね合わせ、「2度と会う事がない」と宣告した筈の親分が出てきたりどこか異次元さをも感じたりする。

そう言えば『ひとくず』におけるエンドロール後のあのラストのラストのシーンにもそういうニュアンスがある。

それは、カネマサに限らずとも、ゴロー(『西成ゴローの四億円』) にも、カーブ(『ヌーのコインロッカーは使用禁止』)にも、こうすけ(「板の上のふたり」)にも、黒崎(『姉妹』)にも、コオロギ(『ねばぎば新世界』』)などなど、なぜかカ行で統一されている彼自身が演じる登場人物全てに相通ずるいわゆる、ドグマチールなのかもしれない。

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*1:秋の虫という事で鈴虫の方が適当なんだろうけどこの辺は知りません w

*2:『ひとくず』カネマサ要素大いにありよね、あっちは逮捕されたんだけれども。

*3:こちらのサイトからの引用である。

www.good-appeal.co.jp

*4:こちらのサイトからの引用である。

ameblo.jp

*5:Wikipediaでざっと調べた公式音源だけでも25組。彼らには『ホテル・カリフォルニア』と言う大ヒット曲があるが、日本人でのカバーは『Desperado』の方が圧倒的に多い。インディーズとかのカバーを含めたらもっと多いだろう。ja.wikipedia.org

*6:過去、様々な演劇を鑑賞してきて、演劇関連記事も増えているので、ここに記述しておく。

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