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S-igen企画(#吉田彩花)がこの世界に放つオルタナティブパンク『#悲劇のアルレッキーノ』爆裂レビュー(完全版)

S-igen企画(吉田彩花)がこの世界に放つオルタナティブパンク

『悲劇のアルレッキーノ』爆裂レビュー

Table of CONTENTS

1. preposition~エンタメとは何か?

2. Story&Cast of『悲劇のアルレッキーノ

3. Focus of『悲劇のアルレッキーノ
(A)狂気から共鳴、そして共感へ
(B)たんぽぽとタバコのシンクロニシティ

(C)主題歌『サニー』再分析

4. Further Perspectives 

4-1『悲劇のアルレッキーノ』は演劇のパンクなのか?

4-2 オルタナティブパンクの定義

付記;結びに変えて

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私だって楽になりたいよ、もう考えたくない、

疲れたって言いたい。

クソミソに悪態つきたい。

死にたいとか言いたい。

可哀想だね、頑張ってるね、凄いね、偉いね、そんな時頑張らなくて良いよ。

可愛いねえ、幸せにするよ。そこに生きてるだけで良いよ、とか言われたい。

............んな訳ねえじゃん。

ダッサーって。

私はね、そういう奴が嫌い。

幸せなんて自分で作れよ。

どいつもこいつも人任せにしてんじゃねえよ。

裏切られた?

あんたの理想押し付けただけだろうがよ。

大体人の幸せ望んでる奴なんて「幸せになりたい」なんて言わないんだよ。

幸せじゃない方わざわざ選んで悲劇のヒロイン気取ってんなよ、くだらない!!

向き合う事が怖い奴の戯れ言。

そんな奴一生脇役だよ。

その同類で固まってチヤホヤしてるの見ると反吐が出る。

でもそういう奴を羨ましく思ってる私みたいな奴が一番反吐が出るわ。
何この台詞、めっちゃリアル.....

 

ここ最近、というかここのとこずっと普遍的にエンタメ界隈に関する会話で、「私は人と違って音楽サイドに詳しい人間です。」「私は舞台よりも映画が好きな人。」とか「私は演劇サイドの人間で、あとはアニメが好きかな。」などと言ういわゆるジャンル分けみたいな会話ややり取りが日常で繰り広げられたりする訳だがハッキリ言ってそのボーダーライン分けにはビタ一文たりとも価値がないものと思っている。

何なんだよ、その変なボーダーをわざわざ作っといて各自に与えられたその狭い狭いナワバリの中で「私はこっちの領域だからそっち側の人とは違う。」みたいな小さなコミュニティを作って、その中でまさしく井の中の蛙じゃないけど、私は新規だ、あなた方は古参だのしょうもないヒエラルキー作りやがって、その中で自慢したり落胆したりマウントを取り合ったりして楽しいんですか?

そこに希望はあるんですか??

はっきり言ってもう、そんな蛸壺の中でテイスティングし合ったりする事自体がもうエンタメ界隈全体の崩壊をもたらすアルマゲドンレベルでヤバいんじゃないかと思うのだ。

 そんなもの、人の心臓部のコアのど真ん中をブチ抜きさえすれば、もうそれは音像だろうが、映像だろうが、漫画だろうが、文字だろうが、ライブだろうが関係ないのだ。その証拠に、かつてスリラー直前ぐらいの音楽フィールドの人である筈のマイケル・ジャクソンでさえ、『オズの魔法使』を基にした1978年のミュージカル『ウィズ』では諸手を挙げて引き受けてたじゃんか。

最近だって映画実写版『Cats』でテイラー・スウィフトが完全に猫のコスプレ姿で出てきてたし、更に視点を変えれば、あのアリアナ・グランデだって伝統あるオーディション系バラエティー番組の出演に関して「これは栄誉です」とすら言ってたじゃないか。

この事実が何を意味するかて、彼らははなっから「私は音楽サイドの人です。それ以外は仕事を引き受けません。」なんていう変なプライドの乗っ取ったボーダーが無いのだ。

もはやエンタメには色んなジャンルを作って、不毛なボーダー作って喜んでんのは恐らく日本だけではなかろうか。

そして、そろそろこの国もそう言う壁をぶち壊すべきフェイズに来てるんじゃないだろうかとも思ったりする。

で、そんな事を思ってた矢先、正にドンピシャなタイミングで「演劇という枠を超えた所にあるオルタナティブな姿勢を持つパンクのような演劇」に出くわしたのだ、そう、ここ日本と言う、どうにもサブカル界隈ではガラパゴス化しがちなこの国で。

もうこれぞ、正に私が思ってたジャンルの垣根を超えたエンタメど真ん中である。それが本ブログ記事でも度々登場している吉田彩花(a.k.a.エンタメは心の太陽)が今年立ち上げたS-igen企画による『悲劇のアルレッキーノである。

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1. Story and Cast of

『悲劇のアルレッキーノ

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ではここで、大まかなストーリーと人物構成を紹介しよう。

この話はサキ、愛、茜という3人の女性がストーリーの主軸を担っている。

3人お女性が主役...とは言っても別に女性から3人と聞いて以前本ブログでも触れた森めぐみ、林貴子、原田樹里などキャラメルボックス同期俳優陣から構成されるユニット「ねこはっしゃ」による『ふたり、静かに』みたいな女3人が勢揃いしてシチュエーションコメディ的なやスタイルを彷彿とするかもしれないが、実際は全く違う事に注意したい。

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この茜、愛、サキと名乗る3人の若い女性達は上記のように決して揃うことはなく、ここではサキを中心に携えた状態で、常に1対1の会話に焦点を絞る事で、その時にいる当事者二人による会話を通じ本音の部分がより浮き彫りになるように演出がなされている効果がある。

 その意味で人間同士のドロドロした内情渦巻く物語といえば、吉田彩花自身も本シリーズに出演していた朝川優主催による『GCM動画日記』のこの中のCase3『女の話』にその直感的なもの(intuition)が近い様に感じたりする。

nenometal.hatenablog.com

 あと更に朝川優のGahornz関連で、人間同士のドロドロした内情渦巻く物語といえば、2020年10月30日のGCL(Gahornz Creation Mobile)との作風的なシンクロニシティを感じたりもした。本配信は『遺産相続をめぐる残された親族達の物語』という設定だったが、とにかく出演者である井上ほたてひも演じるフラフラしてるナンパな最低な長男の役柄が、相手の心に隙あらばズカズカ入ってくる感じが、個人的にリアルすぎてやや目眩がするくらいのど迫力だった。中でも序盤では幾分抑え気味だった感情を独白と共にぶち撒けた吉田彩花の迫真の演技が印象的であり、そこで今回「痛快パンキッシュコメディ」と言うコンセプトを持つ本演目にどこかしら連動している様な気がするがいかがだろうか。

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もはやこれは人の欲望と憎悪と咆哮が渦巻く"狂乱のライブ"の様相をなしていたと記憶している。

 

さて、本記事の主役である『悲劇のアルレッキーノ』に関して語っていこう。

ここで3人の主要キャストを紹介したい。

①伊藤愛 (played by. 細川聖加)

元々学校の同級生であるサキにとっては心許せる存在である。しかし茜同様、彼女に対し実際は嫌っている。藍とは一緒に飲みに行ったり、ライブに行ったりと心開いて本音を語り合う友人である(?)。現在、子供を妊娠しているが、誰の子だろうか???

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②清水サキ (played by. Nana(旧;神 無月七))

3人の中で最も要注意人物かも、というかこの演目の爆弾的要素。常に「サクタン」という実在するのか否かが恋人についての思いを吐露する。情緒不安定のいわゆるメンヘラ傾向あるがこれが観ていくうちにこの人の印象が変わってくる。*1

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③長田茜 (played by. 山下ナオ)

「どんとこいや〜!」が口癖かつモットー。清水サキと同居しているが彼女の情緒不安定ぶりにかなり振り回され気味でウンザリしている。だが....。仕事の同僚、茜とは心許せる「どんとこい」な飲み&喫煙仲間である。

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④Saika (played by. 吉田彩花)&廉士郎

更にこの演目主催の吉田彩花と、ギターサポートでお馴染みの康士郎もほぼ本人役として本演目に出演しているここでは詳細は避けるが彼女の存在がある意味Hiddenメッセージになっていると私は考えている。

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Total Perspective

「人間とは決して分かり合えない存在である」

そんな残酷なテーゼを立証するかの如くサキ・愛・茜の女性3人が舞台と狭しと繰り広げる独白と共感と慟哭と咆哮がもたらす本音と建前と真実、そして虚像の部分に圧倒される。

本演目では大衆演劇ならではの説明的な明確さやオチに至る流麗な流れや博愛主義的な結末をはなっからかなぐり捨てられていて、ぶっちぎって突き落とすこの展開は痛快そのものだったこれはもはやs-igen企画の主催者である吉田彩花がコンセプトとして掲げるように、演劇というフィールドを越えた痛快パンキッシュコメディであるのかもしれない。個人的に、今回13:00のみの観劇の予定であったが、急遽二回目も観劇する事になったのだが、本演目みるにつれ3人3様に感情移入のシフトチェンジができるきめの細かい演劇だったからというのもあると断言できよう。

中でも、サキに関しては序盤はとにかく生きてるのか死んでるのかはたまた実在してるのかすら観客にとっては極めて謎な存在の恋人「サクタン」への偏執狂的な思いに正に文字通り「狂気」を感じてきたが、徐々に終盤にいくにつれ彼女の「共鳴」の部分にどこか寂しさを感じ、やがて「共感」してしまうという....ほんとに不思議な役柄で興味深くめちゃくちゃ惹かれてしまった。

そして更に本演目に関してとても興味深かったのはこの公演日である11/21日より以前にこのもう12/1から配信される公演の完成形を先に撮っており、その後有観客公演を明日ブチかますという、まるで楽家がアルバム作ってLIVEやる流れを演劇でやってのけようとしている点だ。

誰もがやっていない事をカマす事、ここに本演目の姿勢があってそういう面からも「痛快パンキッシュコメディ」というキャッチフレーズを主催者S-igen企画は提示していると思うが、この演目における詳細なパンク性に関しては、第4章 のFurther Perspectives にて詳しく論じていきたいと考えている。

そして吉田彩花が上演前から掲げている『人生は壮大なコント』と言うコンセプト。これを聴いてふと思い当たる節がある。世界の三大喜劇王と呼ばれる、イギリス出身の俳優、映画監督、コメディアン、脚本家Charlie Chaplin(チャールズ・チャップリン)が以下の名言を放っているのだが、果たしてこの名言と本演目がどのようにシンクロしていくのかと言うのも個人的には着眼点として念頭において臨んだ。*2

Life is a tragedy when seen in close-up, but a comedy in long-shot.

(人生はクローズアップで見れば悲劇だが、ロングショットで見れば喜劇だ。)

 

ーCharlie Chaplin(1889年4月16日 - 1977年12月25日)

そう、本記事は11月21日午後13:00と午後17:00に、私は確かに学芸大学駅付近から歩いて数分ほどのところに位置する千本坂ホールにおいて、劇団EXPO主催によるs-igen企画『悲劇のアルレッキーノ』を二度にわたって目撃したその時の記憶と感動を頼りに、演劇のみならず、映画、音楽など様々なフィールドから全エンタメを見据えて考察した魂の記録である。

更にこの公演には以下のツイートが示してるように、配信versionなるものを別に収録しており、こちらは12月1日から配信がスタートする模様である。

 

 

 

*以下、ネタバレゾーンなので詳しくは12月1日以降の配信バージョンをご覧になってから読まれることをお勧めする。

 

2. Focus of『悲劇のアルレッキーノ

(A)狂気から共鳴、そして共感へ

先ほど3人の主要人物について概観してきたが、この中ででも特筆すべき核となる人物は勿論清水サキである。彼女は【サクタン】という現存しているのかいないのかわからん恋人への惚気であるとか不満であるとか、そういう思いを一見寛容そうに受け入れる愛に心の底から依存しているように見えるのだが、気持ちのぶちまけ方が半端ないのだ。

正に狂気と正気の天秤にかけつつの、狂気要素強めの狂いっぷりである。

だが徐々に話が展開していくにつれてこのサキという人物が気になってくるのだ、というよりも具体的にいうと彼女の発する共鳴にヒリヒリとした共感すら覚えてくるのだけれど、そこで壮絶に個人的なある観劇経験を思い出さざるを得ない。2019年の夏、山口ちはるプロデュース『明日もう君に会えない』という下北沢「劇」小劇場にて上映された演目にて、ある友人の自死に際して精神的に狂ってしまった親友を優しく諭す、偶然にも今回の清水サキと同じ名前を所有する主人公なつの親友さき(田中文乃)を思い出したのだ。

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彼女自身も多くの劣等感を抱えながらも敢えてその闇を閉ざし親友達にポジティヴィティを与えようとするあの健気さに号泣したものだった。

親友の死という絶望的な現実にうまく向き合う事ができずに亡霊か何かと交信するかのように譫言を繰り返す友人に向き合い説得するさきと、3年前に知り合い、2年前にいなくなってしまった恋人(?)に同じく亡霊か何かと交信するかのように譫言を繰り返すサキとが同様にオーバーラップしてしまうのはこれだけ条件が揃えば当然のことだろう

ただし本演目はそこまで「死」というテーゼは用意されておらず、結果的には最後のオチは置いといてもシリアスかつヘヴィな現実ではなかったのだけれど、ある意味「サクタン」はこの時点ではサキの恋人ではなかった訳で【現実を受け入れきれずに妄想に走る】という意味においてはとても近いものがあると思うからだ。

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(B)たんぽぽとタバコのシンクロニシティ

ここでは様々な本演目を彩る小道具について触れたい。その事を象徴するのに彼女の頭を飾っているヘアゴムは「たんぽぽ」のレプリカである事に注目したい。確かこういう感じのものだったとしてリマインドのために参考写真をあげておく。*3

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劇中でも触れている通りたんぽぽの花言葉には『真心の愛』(ほかにも『愛の信託』『誠実』『幸せ』)というポジティブな意味以外にも『別離』という全く真逆の意味をも内包しているが、これは黄色い花として咲き誇っている時と、風で種子が飛ばされる綿毛となったあの真っ白なたんぽぽとでは別れのニュアンスを醸し出すかどうかで区分されるからだ。さて、このサキがタンポポを身につけている事実は何を意味しているのか。勿論これはあくまで予測だけれどサキはいつまでもサクタへの未練を断つ事が出来ず、いつまでも黄色い花の状態に固持して、タンポポの種子が飛び立つ状態つまり別離を許容できない事で、これを頭に身につけ続けることによって正にタンポポとの共依存を示唆しているのではないだろうか。

その「共依存」に関連して愛が血飛沫を浴びた腕を隠しつつラストシーンにて激白する超インパクトのあるシーンがあるのだが、以下のセリフが本演目のSummaryとして機能しててとても象徴的である。

あの子はさあ、私を不幸な奴だと思ってんのよ。

だから一緒にいんのよ。
でも一番可哀想なのは誰だろうね。
2年前の男に振られて、振られたなんて言えなくて未だに作り話で惚気話してくんの。
嘘のカタマリ。
哀しさ埋めるためにあなたの事死んだ事にしてそのショックで頭おかしくなったフリして何の積みもないお人好しの同僚の女捕まえてまた不幸な奴作ろうとしている。
バカだよねえ。
でもさあ作り話はずっと作り話じゃないと実話が入っちゃっダメなのよ。

ねえ、口約束が嫌いで苦手なあなただからこうやって約束したんだよ。

私ほんとに可哀想。タ

ンポポの花言葉って知ってる?「真心の愛」だよ。

でもね、綿毛になったら違うの。

何だと思う?「離別」だよ。面白いね。

可哀想な私。いや待って。

可哀想?

ほんとに可哀想なのは2度も殺されたあなたか。

サクタン....

あと同じ文脈で、劇中では残りの二人、愛と茜はよくタバコを吸うシーンに出くわすものである。そこで「タバコーの銘柄には“ラッキーストライク”や“ピース”などハッピーな名称が多いのはなぜだろう?害じゃん、アンハッピーだろうがよ。」というセリフがあるが、正にこれはタンポポの持つポジティヴィティとネガティブヴィティとの対比を示唆しているように思えてならない。或いは彼女らがタバコを止める事ができないのは表面上明るく振る舞っていてもその奥にはどこか狂気的なダークネスを併せ持っているサキの事を無意識にも暗示しているのかもしれない。
要するに、タバコを象徴する存在としてのサキの存在はイコールであり「嫌いなんだよね」と言っておきながら決して唾棄すべき(死すべき)存在だとは思っていないのかもしれない。そう考えると彼女らが“ラッキーストライク”や“ピース”以外にあげた【ハイライト】というタバコ柄の名称もどこか今後の展開を考えると意味深に聞こえてくるのだが如何だろうか?

 

【配信view】ちなみにこれは配信を観た後に気づいたのだが、同居している茜がもう散々サキに愛想尽かしてシェアルームから出ていくくだりで「あの子(サキ)はどうにも見捨てられないんだよねえ、私がいなくて大丈夫かな。心が弱い子だと思うし。」というセリフがあったのを確認した。やはりサキとは害悪といっておきながらもその実ほっとけない存在なのだろう。そして、愛が煙草を止められないのは表面上明るく振る舞っていてもどこか心の弱さを併せ持っているサキの事を無意識にも暗示しているのかもしれない。
つまり煙草とはサキとの象徴であり「嫌い」と言っておきながら決してほっとけない存在。
いや、むしろ長田は愛の方を嫌っていて、ある種の復讐戦として自分がサキとの同居をやめることによってよりサクタンとサキ都を近づけるべく画策したのかも知れない。

だからあの惨劇となるあの結末へと導くのが腑に落ちてくるのだ。

さらに愛がなぜそれほど好きではなさそうなサキと話し相手になっているのかというとズバリ。サキによると「学校時代孤独で友人がいなかった茜の話し相手になってたのは私だと。」という事である。これは妄想ではなく事実。ということは当初はサキへの劣等感に苛まれていた末の愛の苦悩というものも配信によって深く読み取ることができた。

そう、総じて配信版は更に表情に肉迫したカメラワークにより、3人の表情と感情の変化がより顕著になり、サキへの劣等感に苛まれていた愛の苦悩、サキに対し嫌悪を抱きつつ見捨てきれぬ茜のナイーブな側面を感じ取る。シリアスすぎて笑ってしまう。観れば観るほど悲劇は喜劇へと変貌するのがわかる。

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(C)主題歌『サニー』再分析

また本演目には「痛快パンキッシュコメディ」というキャッチフレーズがあるようにこの主題歌をはじめとした音楽にも注目せざえるを得まい。

本演目ではオープニングテーマでもありエンディングでもある楽曲として吉田彩花(Saika)のオリジナル曲『サニー』が大々的にフィーチャーされている。


www.youtube.com

本曲については過去の吉田彩花(Saika)の楽曲全般にわたって触れた以下の記事において『サニー』についてそのコンセプトに関して詳細に述べているのでここで再喝という形で抜粋したい。

nenometal.hatenablog.com

以下、上記事からの引用である。

 

本曲の『サニー』とはSaikaが最も愛用しているアコギに名付けられた愛称でもある。「サニー=Sunny(太陽の)」恐らくこのフレーズは正に彼女が常日頃スローガンにしている「エンタメは心の太陽」に由来しているのだろう。「もう過去など笑いとばせ!そしてリズムを奏でよ!」そんな事でも言いたげなこの血湧き肉躍るこの曲、それにしても聴いてて胸のざわめきを誘導する曲だ。 本曲はここ最近バーペガなどの配信スタイルのライブでも頻繁に演奏され、それを見るたびに徐々に狂想曲のような混沌性を増していく化け物要素満載の曲である。あの『まる』が広く長く大きく普及すると大海原を巡るカモメのような広大さがあるのに対してこちらは突黒を巻いて突き進む大蛇のような(なんじゃその例えw)どちらも対照的ながらも非常に更新性の高い曲でもある。

喜怒哀楽ほど簡単に言葉に収めたとしても感情は余白ほど渦巻いてる

そしてフレーズを見て思い当たる節がある。これは以前「うぇらっぷ」というライブイベントでこのようなことを言ってたのを思い出す。

人間の感情は喜怒哀楽と4つに分けられるのってとってもシンプルだけど、色んな事情でそう断言できない余計な感情が芽生える事もある。そんな時にこの曲ができた

この曲とは紛れもなく以前デジタルでリリースした『余計だ』のことを示唆し、あの曲の「幸せは一瞬のことで僕ら余韻を生きてるんだ、よね?」という一節とも本曲とリンクするのも頷ける気がする。どちらの曲にも言えると思うのだがそこに込められてるのは #吉田彩花(Saika)によるエンタメへの熱い思いは

僕らにマイノリティなど本当はないの

という一節にも現れてて小劇場だろうが、インディーズのシンガーであろうともエンタメにかける想いにはメジャーマイナーなどないのだという彼女なりの闘争の火蓋が切って落とされた宣戦布告感に満ち満ちたりてる曲だと思うのだがいかがだろうか。

 

そう、ここで奇妙な偶然の符号性を見る。吉田彩花が敬愛する*4 鈴木実貴子ズの楽曲も本編のみならず、会場前のBGMでも数曲ほど使用されているが、人間の感情は喜怒哀楽と4つに分けられるがそう断言できない余計な感情が芽生える事もあるという吉田彩花とシンクロするような事をMCしているのだ。具体的には10:00ぐらいの口内炎がなおらない』を演奏する直前のMCである。

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ここで本動画10:00ぐらいからの鈴木実貴子のMCを引用すると、彼女は以下のように述べている。

「白黒はっきりつ付けたい性格で、嫌いなものは嫌い、それは正しい、私はどうしてもそれを決めつけるタイプでして、でもそれは凄いダメな事、損な事だと最近気づいきました。

グレーでいる事は自分を守れる。全然悪い事じゃない...」

 

そう言って、『口内炎がなおらない』を演奏し始める。

そもそも本曲は平静を装って生きててもいつ何時「皮を被った暴力や無責任がいつ露呈するか分からない」そんな我々の日常は、単なる体調か、命をも奪う大病の前兆にもなり得る口内炎というモチーフを使って本曲を歌い上げたのだが、この鈴木実貴子の「グレーでいることの重要さ」と吉田のいう「喜怒哀楽では片付けられない第五の感情=余白」という量概念がどこかイコール関係で結実するような実感を覚えるのだ。*5

 ちなみに本編中に実貴子ズの楽曲として『常識とルール』が採用されているが、こちらも同様に検証してみよう*6*7

www.youtube.com

常識とルールにのっとって 人格形成し直して

人間らしくなりました 友達もわりあいできたこと

公園のベンチにまたがって 新商品のからあげ食べてる 

コーラにメントス 僕には何が要るの

 

ー 鈴木実貴子ズ『常識とルール』

本演目でフィーチャーされているのはこの歌詞のくだりで、このバンドの特性から別に

【僕には何が要るの】という次のヘヴィーな展開に繋がるある種宣戦布告文以外の文章はとてもアイロニカルな含みがあることに気づくだろう。このどん詰まりのような日常の風景から怒涛のような激しいアレンジが待っているのだが、去年の6月に鑪ら場でのリハビリワンマンだったっけか、その直前の実貴子のどこかに潜む敵を見据えるかの如くギラッと光る眼光の鋭さが、すごく印象的だったのを覚えている。実は次節のキーワードと連動するんだけど鈴木実貴子ズ史上最もニルヴァーナ直系のグランジ込みのオルタナティブ曲かもしれない。*8

まあ話は取り止めも無くなってしまったが、「グレーでいることの重要さ」「喜怒哀楽では片付けられない余白である事の重要性」、この二つのテーゼと対立する概念として『常識とルール』というタイトルがものすごく響いてくるように思える。

 

4. Further Perspectives 

4.1 『悲劇のアルレッキーノ』は演劇のパンクなのか?

さて、ここで個人的な話になるが今回『悲劇のアルレッキーノ』観劇にあたってコロナ禍以降、今年2度目の上京である。1度目は2021年1月12日の劇「小劇場」にて上映されたCCBによる吉田彩花主演「雨雨』、そして今回も2021年11月21日、同様に吉田彩花主催という形での『悲劇のアルレッキーノ』というこの10ヶ月のインターバルがありつつも両イベント共に吉田彩花という共通項のみならず、1と2とが並ぶこの日付における奇妙な偶然性はどこかここへ来る事が最初から決まっているかのようなカルマめいたものを感じざるを得ない。それにしても本公演は13:00〜からの回と17:00〜からの回と2度予定されていて、当初は13:00のみ鑑賞予定であった。*9*10

しかしそこは演劇のもたらすマジックのなせる技で、既に13:00の回のオープニングでの大爆音でかかる『サニー』と3人の紹介映像を目にした途端、もう心は決まっていた。わかったのだ。あ、これもう一回観るわ、と。もうここでS-igen 企画の、そして3人のキャストの今回の劇団EXPOにかける心意気がビシビシと伝わってきたのだ。

実は13:00公演後に色々と予定していた下北沢だ、美術館だ、吉祥寺だの、東京観光のプランを全て取りやめにして2回目を観る事に決意したのだ。結果的に今回遠方から東京に来たお土産は本劇のパンフレット2冊と池袋で出来心でやってみた仮面ライダーのフィギュアのガチャのみだったがこの劇に2回触れた事がなによりのお土産でありもうそれどころか、心の宝物だと思っている。

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*11

 これは演劇に限った話ではないが、映画や演劇などあらゆるエンタメに必要なものはうまくセリフを言うことであるとか声が通るであるとか、あるいは上手に演技ができるであるとかそういう所にあるとは全く思わないのだ。もっと言うと、ここ最近のエンタメはかなりコンサバティブになっていてつまらないものが多いと正直に思う。それは音楽にしたって映画にしたって何したって同じで、これは売れ線であるとかわかりやすい結末であるとかあるいは伏線を回収することであるとか消費者にとってはどうでもテクニカルな所やストラテジーに焦点を絞ってしまってあまり魅力を感じないものは多い。

 しかしこの『悲劇のアルレッキーノ』はそういう所にハナっから重点を置かなかった所に勝利があったのではないかと思う。むしろ「痛快パンキッシュコメディ」というコンセプトの織りなすインパクトであるとか、役者の荒削りながらも思いに満ち溢れていたりとかこれはもっと重要な事だが、作者の現状に対する苦悩や不安、そして怒りであるとかそういう人間本来の持つエモの部分にもにも焦点が絞られていて、繰り返しになるが3人3様各々の角度や視点でもって感情移入ができる作品であると断言できるのだ。

さて、ここでアングストという言葉を用いたがここで更に突き詰めて本作は生粋のパンク作品として成立するのかについて厳密に検証したい。

 この辺りを説明するために二つのインディーズ映画を取り上げよう。『悲劇のアルレッキーノ』を観て音楽以外でどの作品がパンクかって考える時に浮かんできた『佐々木、イン、マイマイン』や『サマーフィルムにのって』のクライマックス・シーンがどうしても筆者の頭の中で浮かぶから。ネタバレは避けるが、前者は映画のラストシーンを突如演劇のカーテンコールへと変換させ、後者はクライマックス・シーンを舞台演劇そのものへと変化させた、いわば映画フィールドから演劇フィールドへとトランスフォームさせる事でライブ的なダイナミズムを呼び込むのに成功している作品である

両作とも監督ははなっからあのクライマックスありきで撮影してたと思うし、あれ観た人は誰しも何かがぶっ壊れる瞬間があったのではと思う。

ゆえに『悲劇のアルレッキーノ』も『サマーフィルムにのって』『佐々木、イン、マイマイン』のように演劇、映画、或いは音楽フィールドにおける既成概念をぶち壊す意味においてパンクに属するものと定義できよう。

 

A.『佐々木、イン、マイマイン』予告


www.youtube.com

 

B.『サマーフィルムにのって』予告


www.youtube.com

 

以下『サマーフィルムにのって』『佐々木、イン、マイマイン』結論部分に触れている箇所である。(ネタバレ含む)

.................

『サマーフィルムにのって』

文化祭において映画部の部員である時代劇の監督でもある主人公が上映会の途中、しかもクライマックスの最中に突如音声と画面を無理やり中断させ、「この映画の結末は違うことに気づきました!今からキャストみんなでここで本物のクライマックスシーンを実演します!」と宣言。映画というフィールドをぶち壊しそこでチャンバラが始まる。

そしてこれこそが私のやりたい結末を秘めた映画だと悟った瞬間に、本作はエンディングを迎える。

*12

 

『佐々木、イン、マイマイン』

佐々木という高校時代より掛け声全裸ゲームみたいな悪ふざけばっかりしてた仲間が10年後社会人としてフラフラしていた彼が突然病死してしまうのだ。その葬儀の場において、生前の彼に対する思いを旧友達が追悼している最中に突然棺桶から彼が飛び出すのだ。そして旧友達もそれを目にして驚くものの、かつての高校生のように悪ふざけモードになり掛け声全裸ゲームするというとんでもない結末を迎えるのだ。

 

両作品の詳細な人物設定などはここでは語る必要はないがここでわかることは『サマーフィルムにのって』においては映画というフィールドから演劇フィールドへ、更に『佐々木、イン、マイマイン』に至っては死んだ人間が生き返るという設定はもはやコントのような様相を示しており、ある種『悲劇のアルレッキーノ』という演劇を見ている我々が突如、映画の撮影風景という現場に移行してしまう事と極めて類似しているのではないかと思う。

 

4.2 オルタナティブパンクの定義

前節にて2つの映画作品と比較し「『悲劇のアルレッキーノ』は演劇のパンクである。」と明確に結論づけられれば本記事は美しくまとまるのだが(この演目へのリスペクトを込めて敢えて言わせてもらうが)実は全てが夢オチならぬ映画撮影オチというスタイルであるとか、ピカソの名言「芸術とは、われわれに真実を悟らせてくれる嘘である。」と言う言明に本演目のテーマが内包されていたりだとか、この演目を完全あるパンクたらしめるには【全てを崩壊へと導くパンク】という過程にまで至っていない様な気がするのだ。

というよりこの演目はパンクと断言するからには全体としてコンセプチュアルで、あまりにもスタイリッシュすぎるのでは無いだろうかと思ったりもするし、もっとパンクならではの人間の「怒り」から発する爆発要素のみならずもっと他の要素が発端になっている様に思えるのだ

違う視点でモノを言えば既存の演劇における概念というより、もうちょっと冷静で既存の演劇のフォーマットに対するオルタナティブとしてのパンクが提示されているのだろうかと思ったり。仮に完全で純粋なパンクを志向するなら、もはやあのラストシーンにおいては、愛やサキのみならず、もう一人の茜にもドグマチールをぶち壊すべき場面が与えられるべきだったと思うし、総論的にいうと、もはやグシャグシャした怒りを燃料とし、それに舞台という発火装置にニトログリセリンをぶち込むような大爆発が起きるようなメタ構造があっても良かったのではないだろうかと思ったりもしている。だから最後の最後のシーンにて、監督助手に神無月七が演じられてたがここは彼女にも更にブチ切れてもらって監督役を直接吉田彩花(あるいは康士郎)が演じた方がわかりやすくもありって感じで良かったのではなかろうかと思ったりしている。

そういう事を思って、私は本演目を鑑賞した後の感想にて「オルタナティブ・パンク」と称している。

 

そう、私がオルタナティブと呼称したいのは単に言葉の響きがカッコいいだけではなくれっきとした根拠があるのだが、その理由をここで提示しよう。

 本演目における一つのハイライトとして主催者、吉田彩花自らギターサポートでお馴染みの康士郎が本人役として出演していて、そこで演奏する楽曲タイトルが『青の時代』なんだけれど、ここでパブロ・ピカソにおける『青の時代』とは何かを概観したい。

以下はWikipediaからの『青の時代』引用である。

青の時代1901年 - 1904年)19歳のとき、親友のカサヘマスが自殺したことに大きなショックを受け、鬱屈した心象を、無機顔料プロシア青を基調に使い、盲人娼婦乞食など社会の底辺に生きる人々を題材にした作品群を描いた。現在「青の時代」という言葉は、孤独で不安な青春時代を表す一般名詞のようになっている。

ja.wikipedia.org

そう、この【青の時代】とは後の【キュビズム】であるとか【アフリカ彫刻の時代】と言う彼のスタイルを確立する以前、ピカソが人生史上最も孤独で最も燻っていた時代で、【青=ブルー】の時代である。そのブルーとは青春の「blue」であると同時に、憂鬱の「blue」そしてその青とは若干、苦悩(アングスト)要素も入り混じった「青」ではなかろうかと思うのだ

それを立証するのにこういう場面がある。ここで、LIVEを終えたばかりのSaikaとひとしきり彼女の知り合いである藍と、初めて演奏を聴き感動した茜とでサインくれるだの物販で語り合った後、藍と茜との間でこういうやりとりがあるのだ。

それは茜が「ミュージシャンとして一本でやっていけば良いようなものの、脚本やったりあっちこっち取り留めのない活動をするのはどうかと思う。」というセリフだ。

この言葉を聞いた瞬間、吉田彩花を認知している誰もが今現在、SSW、女優、脚本、動画サイトなど様々な形でエンタメを届けようとする吉田彩花自身の状況そのものであると悟ったはずではないだろうか。そしてひょっとして他人からはこういう事を外部から言われている事もあるだろうと言う事も同時に予測できる。故に、そういうある種の自虐ネタとも取れる言明をポーンとセリフとして打ち込むことによって怒りをぶちまけていると考えれば、この演目はパンクというより、オルタナティブ(ALTERNATIVE)の特性をも更に浮き彫りになってくると考えたい

その証拠として90年代中期にカート・コバーンの死によってオルタナティヴは終焉をむかえたわけではなく、その後シーンの顔に躍り出た3組のバンドが挙げられよう。

Nine Inch Nails (ナイン・インチ・ネイルズ)

Beck (ベック)

Smashing Pumpkins (スマッシング・パンプキンズ)

上記全てのバンド、実は全てキーワードは悉く「自虐」なのだ。

NINのボーカルトレント・レズナーはヘヴィなギターと機械の音とノイズを駆使し更に泥まみれでパフォーマンスするわ、スマッシング・パンプキンズのボーカリストビリー・コーガンは自意識過剰であったり、ベックもベックで「俺は負け犬さ 殺っちまったらどうだ」などという身の蓋もない自虐的要素を歌詞として全面に押し出したりすることで内面的苦悩や怒りなどを体現している。その辺りの言明としては以下の記事において明言されている。

カート死後のUSオルタナ3大バンド – GRUNGE ALTERNATIVE (グランジ・オルタナティヴ)の総合サイト

そう考えると、同様に「ミュージシャンとして一本でやっていけば良いようなものの、脚本やったりあっちこっち取り留めのない活動家をする人がいるのはどうかと思う。」というセリフ極めてクールに響いてくるしパンクスというよりこれらオルタナティブな要素をも含まれている様に思えるのだ。そう『悲劇のアルレッキーノ』自体にはパンク性は備わっているにしても、極めてあくまで演劇としての文体を崩さずに、クールに表現している。

ではこの愛の最後の最後のセリフで検証してみよう。

私だって楽になりたいよ、もう考えたくない、

疲れたって言いたい。

クソミソに悪態つきたい。

死にたいとか言いたい。

可哀想だね、頑張ってるね、凄いね、偉いね、そんな時頑張らなくて良いよ。

可愛いねえ、幸せにするよ。そこに生きてるだけで良いよ、とか言われたい。

 

笑笑。。、、

んな訳ねえじゃん。ダッサーって。

私はね、そういう奴が嫌い。

幸せなんて自分で作れよ。

どいつもこいつも人任せにしてんじゃねえよ。

裏切られた?

あんたの理想押し付けただけだろうがよ。

大体人の幸せ望んでる奴なんて「幸せになりたい」なんて言わないんだよ。

幸せじゃない方わざわざ選んで悲劇のヒロイン気取ってんなよ、

くだらない!!

向き合う事が怖い奴の戯れ言。

そんな奴一生脇役だよ。

その同類で固まってチヤホヤしてるの見ると反吐が出る。

でもそういう奴を羨ましく思ってる私みたいな奴が一番反吐が出るわ

何この台詞、めっちゃリアル.....

このセリフをざっと読んでみて、多くの人はこの既成概念のようなヒューマニズムに満ちた言明たち(「可哀想だね、頑張ってるね、凄いね、偉いね、そんな時頑張らなくて良いよ。
可愛いねえ、幸せにするよ。そこに生きてるだけで良いよ」など)をことごとくぶっ壊す愛に「言いたい事言ってくれた。」的に長台詞にスカッとする感覚を覚えるかもしれない。
*13

もうこれは要するにこれは「パンキッシュ」なセリフではないかと。ピュアなパンクではないと主張する本記事が揺らぐのではないかと。しかしここにも赤のアンダーラインで書かれた「でもそういう奴を羨ましく思ってる私みたいな奴が一番反吐が出るわ」という件にはやはりパンク性であることを提示する「自虐ニュアンス」も垣間見えるのだ。

まとめると
「❶パンク」と「オルタナティブ(ロック)」の違いについて。

❶=物理・概念を含め破壊衝動に重きが置かれる極めてリビドー的な行為を指す。

❷=❶である自己をアイロニカルかつ自虐的に客観視した上でのパフォーマンスであって、ただぶち壊すアティテュードとしてのパンクであって生粋のパンクではないのだ。本演目を個人的に「ピュアなパンキッシュ」というより「オルタナティブ文脈に寄せたパンク」と定義したのはそこにあって、「怒り」や「苦悩」に苛まれる状況まんま打ち砕くだけでなくどこかクールな視点が垣間見える。そのように現状をただ受け入れるだけでなく、笑い飛ばれるフレキシビリティにこそ本演目の掲げるコンセプトである「人生は壮大なコント」の所在があるのではないかと思うのだ。

そこで、本記事の結論として『悲劇のアルレッキーノ』はパンクそのものというより演劇というプロトタイプに対するパンクな姿勢を表現するものであると同時に、そのようなアティテュードを代案(ALTERNATIVE)として提示するものである、と。

それゆえに『悲劇のアルレッキーノ』こそが演劇界初のオルタナティブパンクである、と結論づけてこの記事の骨幹をなす主張部分を締め括りたい。

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【配信view】ちなみにこれは配信を観て気づいたのだが、Saika &康士郎がオリジナルソングであり本演目の挿入歌としても機能する「青の時代」を演奏するシーンにて長田茜がもう曲調とは裏腹にノリノリになってある種伊藤愛を驚かせ(呆れる?)シーンがあるのだが、この「青の時代」のサビ部分を何度も頭の中をリフレインしていくにつれ私の中でかなり高速なバンド・アレンジ映えする曲なのではないかと思ったりもした。曲自体はたんぽぽの綿毛に付せられた花言葉である「別離」がテーマになっており時にエモさを産む、メロコア的なアレンジとがむしろしっくりくるような気がしてならない。

 

付記;結びに変えて

思えば2021年11月21日(日)本演目『悲劇のアルレッキーノ』の為に関西から来た私だが今まで一切S-igen企画の放つSNSを主体としたメイキング情報、ツイキャスだの動画に敢えて触れまいとしてきた。
理由はもう本記事で何度もしつこいくらい触れてる通り「オルタナティブ・パンク」たらしめる何かを既に感じていたから。そもそも演劇とは前置きや先入観や妥協なしでまっさらな状態で向き合う事だと思ってて己の培ってきた価値観との真っ向勝負だと思っていたからだ。そしてそれは大正解だった、そしてこちらの価値観がぐらりと崩壊するほどに
もう「完敗」してしまった。そう、私の価値観は完全にこの吉田彩花に、S-igen企画に、神星月七に、細川聖加に、山下ナオに、康士郎に、悲劇のアルレッキーノに、そしてパブロ・ピカソに完全に持ってかれたのだ。もう清々しいまでの完敗である。

もうそれが最高に悔しくもあり、そして最高に嬉しかった。

 だからこそ当初11/22の翌日ぐらいに自分のツイートをいくつか連結させて1200字ぐらいのサラッとした紹介記事を上げようと思ってたが気づけば合計20105字をも越えようとしているのもやはり受け取るものが多かったからだ。 

そしてもう一つ私には意地があってこの記事は配信版がスタートする12月1日以前には絶対アップしておきたかったからだ。というのも配信ver.が始まってしまって私にじっくり検証してしまう機会が生まれたとしたらもう11月21日にリアルタイムで感じた様々な私見や所感などが揺らいでしまうし、少々荒削ってようが配信以前に記録として残しておきたかったからである。

 勿論配信版を見た後は細かいセリフなどの修正を入れるだろうとは思うが本記事の土台はこのまま残しておくつもりである。

 最後に私が確かに11/22の13:00と17:00の2回リアルタイムで本演目に触れたことを示す証拠がある。そう、あそこに配られてたリーフレットである。これよくよく見るとってかよくよく見なくてもガッツリ全部直筆でメッセージが書かれてるんだなと言う事に、帰りの新幹線でハッと気づき、とても嬉しかったのを覚えている。*14

繰り返しになるが、東京に行って東京バナナや浅草の団子や煎餅などの何の土産という土産を購入しなかった私だが、*15この二冊は本当に「私は11月21日午後13:00と午後17:00確かに千本坂ホールにいて、劇団EXPO主催によるs-igen企画『悲劇のアルレッキーノ』を二度にわたって目撃した。」と言う掛け替えのない宝物のような存在証明だと思っている。*16

そしてそして、最後の最後に、劇団EXPOでの絶大なる評価・成功を祈ってやまない。

*17

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*1:サキのメンヘラ感を感じ取ったのは料理をするという動作で包丁をトントントンというジェスチャーがなんと腕まで切ってしまっているのみて思った。

*2:ここでも引用している通り、satokaさん演じる伊藤愛のあの膨大な台詞がとにかく圧巻だ。これまで人間誰しもが束縛されていたプロトタイプの幸福論に対して暴かれる怒りと本音とカタルシスに満ちたマニフェスト。個人的にふと「人生は長い目で見れば喜劇だ。」と謳ったチャップリンの『独裁者(The Great Dictator)』のラストスピーチを彷彿とさせる。


www.youtube.com

*3:実際演目で使用されたたんぽぽ部分はプラスティック的な硬い素材であったような気がする。配信版と違うんだろうか。

*4:もはやSaika氏も鑪ら場で二度もライブをし、こうして演目の挿入歌としてフィーチャーするぐらいだからこれを言ってもほぼ説得力に欠けるが(笑)、鈴木実貴子ズの音楽を彼女にレコメンドしたのは私ネノメタルだ!!でも、このレコメンがなければもしかしたら『悲劇のアルレッキーノ』の作風がもしかしたら変わってたかもしれない、と言うかなり個人的自慢である。

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*5:鈴木実貴子ズのライブに関する詳細な記事は以下の記事を参照の事nenometal.hatenablog.com

*6:実は会場前SEにも鈴木楽曲が使われている。

*7:このMVの鈴木実貴子よろしく全速力で思うが、『#悲劇のアルレッキーノ』絶対劇団EXPO制すべきですよこれはこの最高にパンクかつオルタナティブな怒りをエンタメに昇華した本作が天下取ったら世界は平和になるぐらい思っている。正にパブロ・ピカソの言うように「大切なことは熱狂的状況を生み出すことだ」と言う名言がしっくりくる。

*8:ちなみに過去記事でいや、もっとミーハーな言い方をすれば鈴木実貴子ズ史上最もニルヴァーナ的な曲だとも言えるかも。あの1994年のカートコバーン 死の直前『MTV Unplugged』のラスト曲『Where Did You Sleep Last Night』で最後「シヴァーーーーーーーーー!!!!!!!!!」と叫ぶ直前に、一瞬銃弾に打たれたかのように目をハッと見開く誰もが見てもあのドキッとするあのシーンを思い出す。と言っている。

*9:【千本桜ホールエピソード1】;本会場に入場する直前、通りがかりの老夫婦から「今日は何をやってるんですか?」と聞かれ、「吉田彩花さんと言う新進気鋭の女優さんのプロデュースする舞台演劇です。」とまるでスタッフのように答える。ちなみに私はなぜかよくどこの会場でもスタッフに間違われる。数年前ユニクロでもスタッフに間違われたこともあった。

*10:【千本桜ホールエピソード2】;この日『悲劇のアルレッキーノ』一回目の千本桜ホール入る時検温機が「あなたの体温は異常です」と出たのでスタッフの方も慌てて降りて来て確かめたらなんと「30.4度」で、2回目測ると32.5と余りにも体温数値が低すぎて異常反応を示した事が分かって係の人と爆笑したものだ。しかしこういう時「あなたは異常」と言われるのね...笑

*11:【千本桜ホールエピソード3】;2回目は『悲劇のアルレッキーノ』と前回のS-igen公演である『歌え!ピエロ』との共通点はどう言うのがあるかとか考えてたら隣に主役を演じた長谷川小夏さんが座ってたことが判明(笑)絶対そうだと思ったけど前列はすぐに退場するシステム上話しかけられなかったのが残念なことで。

*12:

nenometal.hatenablog.com

*13:そういえばこの台詞の件、twitterでのsatoka様本人のリプによると「あの言葉は大好きで 口にするのがとても楽しかったです女性ダンサー! 今もたまに頭に出てきたら つい言ってしまうお気に入りの所です赤くなった顔」だそうだ。

*14:このリーフレットのデザインは『余韻』のジャケットなども手かげたANJU KAWAHARA氏によるものである。彼女のハイセンスなアートワークも演目に一花添えている。

www.r-manworks.com

*15:てか私そもそもそういう甘いもの食わない派なんですがw

*16:先週『悲劇のアルレッキーノ』の学芸大学駅降りて既視感あるなと思ってたが去年の二月モツ焼きで有名なエビス参でしっかり飲み食いしてレポしてんじゃんという事実に気づく。しっかり以下で書いてますので是非笑

nenometal.hatenablog.com

*17: