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Saika(吉田彩花)1stシングル『余韻』レビュー!!〜全てのエンタメよ、太陽に笑え☀️〜

 

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1.吉田彩花 (Saika)と音楽

思えば、私にとって、吉田彩花の周りには常に「音楽」が存在しているように思う。まぁ私もここ2年ぐらいなのでそれほど長く彼女を認知しているわけではないが、個人的に知っている範囲で言えば、前の記事でも触れているように2年前に初めて観た彼女の主演作舞台『遥か2019』では1997年へタイムリープするという設定もあり、開演前のBGMは華やかな90年代J-Popsのヒット曲で彩られてたし、同じく今年の主演舞台『雨雨』の開演前も雨にまつわるスタンダードナンバーがかかっていた。そして両舞台共々、彼女が歌唱するシーンもフィーチャーされていたように思う。また、彼女がファンダムとのコミュニケーションの為に定期的に配信しているSHOWROOM(以下、SR)でもカラオケ熱唱コーナー、そして自らギターを抱えての弾き語りのコーナーも必ず予定されており、あとYoutubeにカバー動画を公開していたり、本ブログでもガッツリ触れたリモートドラマ『GCM動画日記』においてもロックバンド・メメタァの名曲『東京スカイツリー』のカヴァー演奏動画を披露したり、SNSで #弾き語り女子 のタグでオリジナル曲を公開してたりと、あと最近ではライブ配信でも出演したり......枚挙にいとまがない。

流石と言おうか元・バンドマンという肩書を持つということもあってか「音楽を奏でる舞台女優」というスタンスで、舞台オンリーの役者以上に自然に彼女の音楽的センスとパフォーマンスを披露するチャンスに触れることも多いのではなかろうか。

*1

*2

ちなみにこの二つの舞台作品のレビュー、また両作品にまつわるBGMなどに関する考察は前記事を参照にされたい。

nenometal.hatenablog.com彼女は確かにあるバンド活動を経た後に、舞台を中心とする女優としての道を歩んで以降、歌を「歌う」ことは多々あってもそれらを音源作品という形をリリースする事はこれまでなかった。だが、ここにきて、満を辞してというか、とうとう彼女の誕生日である2/21にフライングして、前日の2/20の日付が変わるや否やソロとしては1stとなる新曲2曲が、彩花ではなくSaika名義にて配信されたのだ。

 

 本シングルのタイトルは『余韻』。

各種配信サイトにて配信中である。

linkco.re

....と言っても『余韻』というタイトル曲はなくシングル全般のタイトルとなっていてこのシングルの収録曲は『余計だ』と『優しく生きよう』という計2曲が収録されている。ちなみになぜ曲タイトルではない『余韻』というフレーズが使用されているかというと『余計だ』の歌詞のキーフレーズに「余韻」という言葉が使用されている事と、これは単純に2曲を収録したものではなくて(2曲連続で聞けば分かるが)『余計だ』〜『優しく生きよう』には一連の流れがあって、一曲目の『余計だ』が終わった後の『優しく生きよう』との曲間にほぼインターバルはなくサウンド的にも地続きで聴く事ができるようになっている。
故に、歌詞的にintrovert(内省的)な側面のある『余計だ』とextrovert(外交的)な側面のある『優しく生きよう』 という一聴した所対照的なこの二曲で一曲という対をなす構成になっていて、両曲足してサウンド的にもそしてリリックとしても『余韻』というフレーズが自然と浮かび上がるような極めてコンセプチュアルなシングルとなっている。*3

次章では曲単位でそれぞれ分析していきたい。

 

2.『余計だ』と幸福論

余計だ

余計だ

  • Saika
  • ロック
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  • provided courtesy of iTunes

  『余計だ』はここ最近世の中で流行しているヒット曲群から照らし合わせても珍しいくらいに、『今、コロナ禍において芸術の立場はいかにあるべきか』についての内面を吐露したような歌詞と、オルタナティブな歌詞とどストレートなロック・サウンドとダイナミックなアレンジに乗って展開されている問答無用のロックである。彼女のフェレットか何かのような愛嬌のある小動物的な可愛いルックスからするとこの力強い歌声とそれに付随するアレンジに少なからず驚く人もいるかもしれない。

 以下のSaika『余韻』歌詞サイトから各楽曲に曲それぞれ取り上げて各々の印象的なフレーズを検証していきたい。

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 さて、まず前半の4行のフレーズを見てみると

「あと数分で追いつきそうだが届かない何か、いっそ消えて欲しい何か」は今の世の中からするといろんなものに準えられようが何だろうか?

まぁそれは例えば、決して可視化されないものだが、確かにこの世の中に存在している人間の憎悪、嫉妬などの悪しき感情の心の根源、そしてこの一年以上も我々のこの生きる世界を汚染していくCOVID-19なる病原菌の存在がなんとなく見えてくるようだ。そう考えると正にこの曲は去年のステイホーム期に作られたことを象徴しているフレーズであると言えるだろう。

そして後半部分だが、

【音楽に励まされたって美味いもん食べたって何かが変わるわけじゃない

の箇所にて励まされても「変わる」の部分を「代わる」とも言い換えているが、これは恐らくは「今置かれている状況を変えたい」という変化への思いと「これまでの培ってきて守ってきた状況を維持したい」という代替えできない思いという、相反する二つの複雑な思いが同時に交差しているのではないだろうか。

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そしてここでは重要な、ある種この曲並びにこのシングルタイトルの決め手になったであろう

【"幸せ"は一瞬のことで僕ら余韻を生きてるんだ、よね?

というフレーズに含組まれている意味には止めどもなく深いものが隠されているような気がするのだが実際どうなんだろうか。

敢えて私の解釈をここで述べるとするならば "幸福"を感じる瞬間はほんの数秒以下程度のもので、それ以外は案外、平坦で、どうしようもない荒野だらけの日常を生きている。だけれど、その一瞬程度の幸せだからこそ人はそれをお守りのように大切にして生きていけるのではないだろうか?そんなことを思ったりもするのだ。...と私なりの解釈をして見たものの、これは恐らくSaika自身の深層心理の中での「ザ・幸福論」が定義されているので、更に深淵な部外者の知る由もない事実が潜んでいるのかもしれない。でも、ふとここで"幸せ"というものに対して同じように定義した作品群を思い出したのでこれらを上げ比較検証してみる価値はあるのではなかろうかって事で以下詳細に論じていく。

まずは岩井俊二監督の2015年の傑作リップヴァンウィンクルの花嫁』における、AV女優である真白(Cocco)が、心許せる主人公七海(黒木華)に対して、自分の幸福論を吐露する一連のセリフである。

真白は幸福の所在に関して以下のように述べている。

 「わたしね コンビニとかスーパーとかで買い物してるとき、

お店の人がわたしの買った物をせっせと袋に入れてくれるときにさ 

わたしなんかのためにその手がせっせと動いてくれてるんだよ 

わたしなんかのために 御菓子や御惣菜なんかを袋につめてくれてるわけ 

それを見てると胸がギュッとして泣きたくなる  わたしには幸せの限界があるの 

誰よりも早く限界がくる ありんこよりも早く だってこの世界はさ 幸せだらけなんだよ  

みんながよくしてくれるんだ 

宅配便のおやじは私がここって言ったところまで運んでくれるし  

こんな簡単に幸せが手に入ったらわたし壊れるから 

だから せめておカネ払って買うのが楽 おカネってそのためにあるんだよ 

人の真心ややさしさがはっきり見えたら ありがたくてありがたくて壊れちゃうよ 

だからそれをおカネに置き換えて 見なかったことにするんだ 

だからこの世界は本当はやさしいんだよ

 


『リップヴァンウィンクルの花嫁』予告編

因みに個人的にこのセリフを上映当時の映画館で聞いて「ヘェ〜、そんなもんかねえ」と意外な感じがしたのを鮮明に覚えている。それは、あまりにも真白が「AV女優」という華やかなかつ派手目な生活を好んでしてそうな彼女の放つその「幸福のありか」が「コンビニの店員」であったりとか「宅急便の配達員」であったりとか、意外と所帯染みているというか、ほんの些細なワンシーンで彩られるものだったからである、しかも両方フィジカルな物ではなく、メンタルな意味での幸福感に起因するものだったし。でも、この些細なワンシーン達っていうのもこのコロナ禍では当たり前に存在していた事象が次々に当たり前でなくなっているという事と照らしわせると、今となってはこの真白の言う幸福論も実感を込めて理解できるようだ。

 ちなみにこの映画における真白の「幸福論」は以下(このブログでも頻繁に登場する)ハルカトミユキが2016年にリリースしたアルバム『LOVELESS/ARTLESS』内の楽曲『永遠の手前』においてもシンクロするかのように歌われている事にも注目したい。

 

【ただ一度輝いて見せた夢は 目の前で消えてった

幸せは泣きたいほどに怖くて 今くらいが丁度良い

(『永遠の手前』by. ハルカトミユキ)

永遠の手前

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さて、この幸せは泣きたいくらいこわい。」というフレーズに注目すると、先ほど真白が放ったセリフと上記の全く同じニュアンスと捉えられないだろうか。まぁハルカトミユキにおける幸福の度合いである「幸せのアビリティ」は真白のそれとは違い、上限のないものとしている点で映画とは異なるのだが、それを前提にしても、自分の本当に見定めるべき【幸せの限界】を限りなくミニマル値に設定すると言った意味においては限りなく近いと言える。

そこでSaika『余計だ』の歌詞に話を戻りたい。

この幸福に関してのくだりの後にSaikaは

ファンタジーみたいに優しくてキラキラした奴ら」や

泥臭くたたきつけるようなとげのある奴ら」は「苦手」であると断定している。

これはどういう事かと考えると先にあげた通り「何を持って幸せだと感じるか」という基準というものは、こうした一見日常の些細なネガティブにも感じられる物たちが存在し、それらとの相関関係によってようやく測られ、得られ、感じられるものだという事が前提にあると思うのだ。

更に論理を詰めていくと、そんなネガティブな事象を彼女は嫌いじゃない」とも断定している点にも注意したい

なぜかというと「キラキラした奴らもとげのある奴らが苦手だと思う事」こそが日常生活のあるべき理想の姿だし、逆に言えば、このコロナ禍でそういう苦手だと感じる事もできないという今の状態自体が不自然なのだ。

キラキラした奴らやトゲのある奴らは「余計なもの」ではあるのだけれど、だからこそ心が明るくなった瞬間にこそ一層幸せを感じる事ができるのだ。

だから今現在、世間ではコロナの感染対策など様々な物事への「対策」を重要視するのは当たり前だと思う。だけれども、その根底として重要なのはかつて以上に何が必要であるか、何が余計であるかという事への選別する事へあまりにも躍起になりすぎてしまっているのではないか。そんな中、今の世の中でのエンターテイメントの置かれている状況がまさに「余計」と「必要」の天秤にかけられ、結局「余計」の部類に追いやられて排除されようとすらされてしまっているのではなかろうか。

音楽や映画、演劇などのエンタメの現状に関しては次曲『優しく生きよう』で比較したい

 

 3.『優しく生きよう』とエンタメ論

優しく生きよう

優しく生きよう

  • Saika
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  • provided courtesy of iTunes

さて2曲目『優しく生きよう』である。本曲は彼女の現在のファンダムと交流できるプラットフォームの一つであるSRにおける弾き方りコーナーにて最終曲として披露されるとても明るくキャッチーな曲である。何がキャッチーかってサビの歌詞が「おはよう、おやすみ、さよなら、またね、お疲れ様とありがとう」という我々が日常生活でよく口にし、耳にするフレーズがさながらサビだという今までありそうでなかったタイプの曲だからである。確かにコロンブスの卵的な楽曲だけども、今ではふとした時に自然に思い出し、かつ口ずさんでしまう、そんな意味では本当不思議な感触の曲である。 

では、以下のSaika『余韻』歌詞サイトから次は2曲目『優しく生きよう』の歌詞を検証していきたい。

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こうして歌詞を見て眺めてみると新鮮なのはSRで見せるあの吉田彩花ワールド全開!という曲だともいう思い込みがどんどん薄れていくのを感じる。このスタジオver.だとテンポを比較的落とす事でよりロックダイナミズムを増したアレンジになっている為か、あの印象的なサビに至るAとBメロの歌詞中見えない不安」「不機嫌な朝」もあるだろうが、でも耐えなくちゃそれぞれの場所で」などなどネガティブな状況下でもこの世の中を侵食していったこのコロナ禍での日常生活をリアルに反映した歌詞である事がわかる。

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先述した前後関係を踏まえ、この歌詞全体の根底にあるのは「かけがえない日常の大切さ」である。「何も出来ずに過ぎゆく日々」にでも耐えなくちゃ それぞれの場所で」は先ほどの『余計だ』同様決して可視化されずとも、この世の中に立ちはだかる悪しきCOVID-19という存在によってステイホームを余儀なくされている現状への思いを図り知れる事ができる

そこでまたふと思い出す節がある。この曲に限らず主観なんだけど、『余計だ』もそうだが、この2曲を聴いてふと浮かんでくるアーティストがいる。

その名も中村一義

彼はかれこれ20年以上も第一線で活躍しているシンガーソングライターである。

詳細等は長くなるので以下のウェブサイトを挙げておこう。

www.kikagaku.com

*4

彼は1997年のデビュー以来、ここ20年以上活動してリリースする曲やアルバムなどコアなファンから一般層まで信頼高く定評のある音楽家だと思うが、彼の初期の曲に『ここにいる』という名曲がある。実は本曲は個人的に『優しく生きよう』とのシンクロニシティを感じてしまうのだが、メロディさながらとても良い歌詞なので以下、全編掲載する。


中村一義 (Acoustic) - ここにいる

 

小さな灯り消して、真っ暗にしてみる。
すると、解るよ。「僕は、今、ここにいる」。

小さな灯り消すと、みんな、何見える?
遠い先の自分が、ほら、今日に手を振る。振る?

まだ、大きな無限大が、みんなを待ってる。
闇を抜けると、そこは、優雅な今日だ。
ただの平々凡々な日々に埋まる、
宝を探す僕が、今、ここにいる。

どうだっていいや。カッコとか、そんなのは。
僕は、ただ、変わるここで暮らすんだ。

小さな自慢消して、みんな、何見える?
巨大な四本の矢を背に、僕は真実を知る。知る?


まだ、大きな無限大が、みんなを知ってる。
トンネルを抜けると、今日は、解放記念日だ。
ただの平々坦々な生活に潜む、
敵を越え行くみんなが、今、そこにいる。

見えないし、行けない。
けど、僕等、今、ここにいる。

ほら、ここにいる。

 

 

ここで重要なのはこの1997年リリースされた本曲の歌詞がいかにこのコロナ禍の状況を予見してたかのようにマッチし過ぎているのではないかという事だ。

「灯りを消したからこそ自分の存在がわかる。」

「闇を抜けたからこそ分かる優雅な今日」

「見えないし、行けない」からこそ気づく「僕等、今、ここにいる」という紛れもない事実。

この辺りのフレーズは確かにこの時期の中村一義の他の歌詞もそうだし、あの90sサブカルチャーを代表する漫画家、岡崎京子の傑作『リバーズ・エッジ』などにも言えるんだろうけど「平坦な日常という戦場でいかに戦っていくか。」というテーゼが前提にあるのだ。だから別にここで中村がコロナ禍を予見していたなどという話ではなく別段コロナ禍ではなくとも、いつの時代も我々は常に戦いを強いられては立ち尽くし、立ち尽くしては戦いを強いられる連続なのではないだろうか?

その戦い抜く為の我々の心に火を灯す太陽として活躍するのが、それこそロックンロール・ミュージックを始めとする音楽であったり、素晴らしい映画であり、演劇などのエンターテイメントではなかったろうかとも思ったりする。

そして、そういったエンタメは、先ほどの繰り返しになるだろうが、このコロナ禍において特に余計な物と必要な物との常にその狭間に立たされて、かなり苦境に立たされているという現実もあり、中には排除さえされてしまっているものもあるだろう。このような現実を見るにつけ、我々の心情として重要なのは。かつてコロナ以前以上に一体何が必要であるか、何が余計であるかという事への選別する事へあまりにも躍起になりすぎてしまっていることへの危惧さえ覚えるのだ。

だからこそ、ここでSaikaが生んだ『優しく生きよう』のみならず先の『余計だ』もまさにそうした日の沈みがちなエンタメ業界に笑いかける、太陽の光であると結論づけたいし、どちらの曲もそうした彼女なりのエンタメに対する心情を如実に表現した楽曲であるのだろう。

だからこそ先月1月に開催された『雨雨』公演の下北沢「劇」小劇場のロビーにおいて以下のように記したのだと思う。

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【エンタメは心の太陽☀️ S-igen企画】

*5

そんな言葉を胸に今後もますますリリースされるであろうSaikaの歌声に耳を傾けたい。

そして音楽のみならず、演劇、映画など我々の心を支える全てのエンターテイメントに対して、以下の祈りのような願いを込めて本章を締め括りたい

 

To everything that is contributing to the entertainment,  

be together under the sun and keep laughing 

to shine the hear of people who are enjoying it.

 

全てのエンタメに関わるあらゆるものよ、

太陽のもとに集え、そして笑い続けよ

そこに集いし人々の心を照らし続ける為に

 

 

4.結びにかえて

さて、いきなりここにきて言い訳だが(爆)、当初この記事は2000字程度のライナーノーツ的なレビューにする予定だったがやはり長尺の記事になってしまった(笑)。

というのもこのブログを執筆してる今日の日付は2/21(日)という吉田彩花の29回目のバースデイで、さらっとした記事を今日中にアップしてささやかなるプレゼント(というのもおこがましいので)というよりは、今回のリリース記念に何らかの記憶の取っ掛かりにでもなれば幸いであると思ったまでである。

でも、そうは問屋が下さなかったのは2曲を聴いて行くにつれ、映画のセリフを思い出したり同一テーマの歌詞と比較したくなったりと色んな検証めいたものを始めてしまったのだ。

でも一つのカルチャーがもう一つ別のカルチャーを呼び、更にもっと違う何かが広がっていく。でも逆に言えばこれがカルチャーのあるべき理想の姿ではないのかな、とも思ったりするのだ。一人のアーティストの一つの音楽、一人の監督の一つの映画、とか一辺倒に排他的にひたすら没頭できるのってそんなに面白いものだとは思えないのだよね、広がっていかないものは。

あ、そうそう、とにかくこの記事はこのままでは終わることはないだろうと注記しておく。

今後Saikaが本楽曲の動画をあげるなり、新曲をあげるなりのアクションすれば、更に本記事へのextensionも十分に考えられる。だからいずれにしろ長尺のブログにはなるだろうと思ってたのだ....ってかもう10200字を超えてるんですけどね(笑)

それはともかく昨日リリースされた本曲も自分含めリスナーの反響がすごく良のだ。

という訳で最後の最後に、本曲を聴いたリスナーの感想ツイートなど載せて本ブログを締め括ろうと思う。

 

 

 

 

 

 

 

 

Happy Birthday to Saika Yoshida!!!

*1:吉田彩花のホームページを再度ここに記載しておこう。

shiki-sai.amebaownd.com

*2:あと『GCM動画日記』で吉田彩花がガッツリ出演しているのはこちら。

nenometal.hatenablog.com

 

*3:言い換えると後者が前者のアンサーソングになっているような、或いは二曲が一つの曲として繋がってるプログレ感覚も感じたりもする。

*4:ここではここに注釈しておくがこの『余計だ』を初めて聴いた時に思ったのはアレンジのロックっぽさやメロディーなどが『新世界』という曲を少し彷彿とさせた。ライブver.を乗っけておこう。


中村一義 - 「新世界」

*5:ここにS-igen企画という文字があるがこれは彼女が独自で立ち上げた演劇プロジェクトである。

9484839322.amebaownd.com