0.その映画の名は
ある日、行きつけの美容院で、よく映画や音楽の話の趣味がこれでもかとばかり話が合うのでいつの間にか飲み友達ともなってしまった近所の美容師(男)に髪を切ってもらっていた時の出来事だ。当然そこでの話は「最近何か面白い映画を観たか。」という話題になった。私は最近、むしろ様々な映画作品を見てるので『アルプススタンドのはしの方』をはじめとして様々なネタを投下したのだが、意外や意外、彼はここ最近あまり劇場以外でもほぼ映画を観ていないのだという。実は近所のTSUTAYAが潰れてしまったのも遠因の一つではあるのだろうが、以下のようなことを言っていた。
「最近は映画というよりも、近所の山の所で焚き火をするのが趣味である。そこで火をぼうっと眺めるながら焼酎のお湯割か何か飲むのが好き。だから、焚き火を見るような感覚で伏線とか泣き所とかストーリーとかがごちゃごちゃしていない映画が観たい。」と。
その瞬間もうここ最近みた映画のタイトルがよぎった。もう余りにもそう言った彼の現在のモードってのがドンピシャ過ぎたのでもう当然の如くこの映画をレコメンドした。
そう、その映画こそが今回の記事の主役、「すずしい木陰」(守屋文雄 監督 /出演 柳英里紗 )である。
1.「すずしい木陰」
これってどう言う映画なのだろう?と問われるとこう情報量はこれだけ、としか言いようがない。結論から言うと、「夏のある暑い日の午後、ハンモックに寝ている一人の女性。」と言うそれ以外にもう何も付け足しようのない予告編の映像そのまんまで延々と続いていくのだ。
ちなみに本予告では以下のナレーションが聞こえてくるだろう。
たとえばその中古車屋の娘は、
いつまで経っても子供みたいなヤツで、
もうすぐ30歳になろうというのに、
家でゴロゴロ、昼過ぎに起きて、
朝食だか昼食だかを済ませる間にも、
2、3時間テレビの前でぐうたら、
食ったら食ったでそのまま履き潰したサンダルをつっかけ、
家の裏の雑木林の隅っこにある、
中古車屋の喫煙所みたいになっている一角に何年も吊られっ放しの、
雨曝しのハンモックにぼよんと転がり、
起きるでもなく眠るでもなくボーッと、
生い茂る木々の葉っぱたちを眺めているように見えて、
実は今後の人生に思いを巡らしながら、
ふと頬を風に撫でられた途端、
宇宙のことを考え出し、
夏の空に伸び広がる天気輪の柱を見た気がしたのだが、
やがてそんなこともどうでもよくなり、
いつの間にかうたた寝をはじめ、
今日もまた陽が暮れてゆく。
....え、このナレーションがこの映画のストーリーじゃないの?という質問が聞こえてきそうだけれど、いやいや、それも違ってて、このナレーションですらほぼ当てになっていないのだ(笑)。
というか、「もしかしたらこういう設定かもしれませんよ。想像にお任せしますが...」という製作者側のサジェスチョンか手がかりか、はたまた妄想ということでしか機能しないのだ。だって本編ではまっっったくそういう言及がないもの。で、どういう本編かといえば、多分時間として夕方三時〜四時ぐらいの太陽が照りつけるある夏の暑い日、まるで轟音の様に響き渡る蝉の鳴き声の最中、時折吹いてくるが大木に吹き付ける涼しそうな風の音や、その木々に集う様々な種類の野鳥たちのが鳴声が響き渡り、そしてやがては時を経て轟音の蝉からヒグラシの鳴き声へと交代するまでのある日の木陰がメインステージである。そしてそこで、大きなハンモックに横たわりひたすら眠ったり時折起きたりする一人の女性を見守る、もうただそれだけの96分なのだ。で、そんな単調な映画が面白いのか?と言うシンプルな質問も聞こえてくるようだ。でも、これが物凄いインパクトを放ったのだ。
「寧ろ凄い映画じゃないですか、これ!!!」そう、これが私がこの映画を最初に観た偽らざる感想である。
だってそこには回収すべき伏線や泣き所のあるストーリー展開など一切皆無なのだから。
「伏線はどこで回収されるのか?」
「この話にオチはあるのか?」
「どれだけ泣ける?、笑える?」
本作は我々が映画なるものに常日頃から抱いているこういうオプションが必ず映画作品には存在するのだ、というバイアスをもう粉々なまでにぶち壊してくれるのだ。ただ、本作の唯一のキャストであり主演女優である柳英里紗さんがハンモックにて寝たり起きたりする様子を遠巻きに見つめるだけではない点には注意したい。本作を観る、というよりも眺める、というよりも見つめる、というか体感いていく内に、スクリーン状で微妙に光の加減や外の音が変化したりする様子を感じ取ったり、どんどん私の中で脳内でストーリーめいたものが構築される感覚を味わえるのだ。まさに脳内アドレナリン分泌映画とも呼称されるのかもしれない。でもこれって音楽文脈で言うと、ちょうどテクノやアンビエントなどを聴いて心地よくなっていく感じに似ている気がする。
しかも私は本作を大阪のシアターセブン 、神戸の元町映画館と合計二回鑑賞しているのだが、二回目の方が初回よりも「より映画」であり、これは新たな映画表現のスタイルであるとの思いを強くした。蝉と野鳥の咆哮が織りなす轟音のハーモニーに包まれるも、パッと静寂に変わる瞬間にハッとしたり、沈みかけた太陽が降臨したかのような光のオーラで包囲される柳さんの神々しさに固唾を飲んだりする96分、と言った具合に、初回以上にアバンギャルドな作品として心に響いたものだった。
そこで話はガラッと変わるが、この映画を観た約一週間後ぐらいに『TENET』を観た。本記事ではあの作品についての詳細な言及は避けるが、あの作品における、頭の中グルグル息つく暇のない展開を観てふと思ったんだけど、ここまで徹底して作り込んだ作品でない限りは、大抵は人は意外と別の事考えながら映画観てるんじゃないか、と思った。
その意味で、逆に色んな事考えながら観ることを誘発する作品でもある『すずしい木陰』はもはや「究極」の部類に入るアバンギャルドな作品だと思う。*1
まさに本作品を"体験"する事に興味のある方は、以下のオフィシャルホームページを参照されたい。
2.『すずしい木陰』リモート舞台挨拶
ところで、本作品を鑑賞したのは計二回であると先に述べたが、一回目は大阪は阪急十三駅付近のシアターセブン 、二回目は神戸はJR元町駅付近の元町映画館だった。この後、両方上映回ともどもリモート舞台挨拶という企画が用意されててトークセッションが繰り広げられたものだ。そこで興味深かった話は守屋文雄監督と柳英里紗さんともども、どこか映画に対する姿勢が凄く共通している点だった。2人とも映画作品に対する思いや、製作者としてのスタンスや、演じていく事への視点はどこか野心的で、まるで90sのイギリスかどこかのオルタナティブ・ロックのアーティストようなアバンギャルドな姿勢が垣間見えたものだ。
特に守屋監督は「事件の全く起こらない映画」という触れ込みの映画に常々疑問を唱えていた模様で、やはりそうはいうものの、どこかで何らかの形で事件が起こってしまっているではないか、という気持ちがあって、だから本作のような「本当に何も起こらない究極」の作品を志したのだと話していたし、柳さんも「ある女優が体当たり演技をした」とは言っても、演技でどこまでが体当たりなのか、体当たりでないのか、その体当たりの究極系として本作の撮影に臨んだのだという。ほんと究極を目指すという意味では完全に符合している。だからこそこの作品の製作に踏み切ったのだろう。
さらに、両者ともども口を揃えていうのが、
「やらない事をやることの怖さ、その難しさと敢えてそれらをやってみようという事の意義。」である。
ここに本作の最大の核(コア)があり、先に掲げた言葉尻たちに常日頃から疑問を呈し、そこに真っ向から挑んだオルタナティブな姿勢を示す作品として『すずしい木陰』を位置付けているのであろう。
個人的にもう一点面白かったのがリモート舞台挨拶で 柳英里紗さんはめちゃくちゃハキハキと明瞭に話される方で、本編の台詞の分量をものの数秒で軽く超えてしまっているのだ。
「前日に何にも無い日の演技を心がけていた。」と言ってたが間違っても『凪の海』での何もかもありすぎたあの日の島崎詩織の翌日の出来事では無いよね(笑)
そして余談ではあるが、元町映画館でのリモート舞台挨拶の時だったが、柳英里紗さんいきなり携帯の充電残りが70%から30%ぐらいまで一気に少なくなったり、何度もzoom落ちで画面位置がコロコロ変わったり、外かららしく見知らぬ犬が近づいて来たり、短時間で映画本編の何倍も色んな事が起こり過ぎてるのは、今思えば滅茶苦茶シュールだったな。
3.映画の未来、映画観の未来
❶ 映画ファンの"総称"
音楽でも映画でもなんでも良いんだけど、ファンをまとめて呼称する「総称」というものがある。大昔90s後期辺り、現Laika Came Backの車谷浩司が、当時AIRというソロプロジェクトスタイルのバンドを開始して、2ndアルバム出す直前だかに「Kids are alright」という曲をリリースする事によって彼を支持するファンをkidsと呼ぶようになったのが個人的には最も古い記憶。多分The Whoにも同名曲があってまさにそういう事だと思うから起源はもっともっと古いんだろうけど。そこからしばらくそういう呼び名っていう概念に意識的ではなかったのだが、最近になって妙に自分が普段聴いているアーティストにもそういう
胞子(キノコホテル)とか、グリモ(Vanityyy)とか、ビッチーズ(Who the Bitch)、Fanly(Anly)、人々(ましのみ)とかファンの総称的な呼び名って色々あるんだなという事に改めて気づく。*3
実は映画部門にもそういう総称なるものが存在していて、顕著にそういう呼び名が見られるようになったのは、2018年の上田慎一郎監督作品である『カメラを止めるな!』の熱狂的支持者が「感染者」と呼ばれるようになった事が皮切りであると思う。そこから同監督の『スペシャルアクターズ』でもスペアク信者とかムスビル信者とか数多く聞かれるようになり、松本大樹監督『みぽりん』の支持者をみぽらーと呼ばれるようになったのも記憶に新しい。松本監督の次回作は『コケシ・セレナーデ』も既に「コケシスト」という名もチラホラ見られるのだがいかがだろうか?*4....という事でなぜこのようなことを言い出したのかというと、かつての90s以降の音楽に対するファンの支持の仕方はむしろ音楽業界では廃れてきて、ここ最近の映画作品とそのファンのあり方の方がかつての音楽作品への支持の仕方と似ているような気がしてならないのだ。
実はこれには根拠があって、むしろ音楽分野では、ストリームとかダウンロードとかが動画サイトで音楽を聴く事がメインになって、アルバム作品を一つのストーリー性のあるコンセプトアルバムとして聴く事はほんとに主流ではなくなっているよ。例えば、Spotifyやapple musicがもう一つのジュークボックスのようなオムニバス・アルバムとなっているので、一人の人間がそのアルバムを全聴きすることは不可能なので、その中で好きなアーティストの好きな曲を部分的に聴くしか方法はないのだ。そう考えると映画のほうが音楽よりも驚くほどにかつての「アルバム作品」への接し方と似ている気がする。だからこういう総称が映画界にも出現するようになったのは映画の観方が、かつての音楽へのアプローチの仕方の限りなく近づいて行っていることの現れなのかなぁとか推測したりしている。
これは音楽でも映画でも言えることだろうが、全体を強引にまとめると、兎にも角にもその作品が「当り」か否かは冒頭のものの数分で決定するのだと思う。その時間内で、観賞者は映像や音像表現がもたらす雰囲気の中に自己の居場所の有無を探るのだ。そこに居心地の良さを感じれば後は何が起ころうが、起こるまいが関係なく安心してその作品にダイブできる。
そして今回のメインである『すずしい木陰」はそんな映画や音楽など文化に触れる時の気持ちの原点を思い起こしてくれた作品であると断言しても良い。
そう考えたら最近鑑賞した以下の作品群にも同様のことが言えるかもしれない。
❷コロナ禍で観た作品概観
そう考えたら最近鑑賞した以下の作品群にも同様のことが言えるかもしれない。
『ドロステのはてで僕ら』
『凪の海』
『のぼる小寺さん』
『テロルンとルンルン』
この作品群は全て、全貌を見せず、一面だけ映してその余白を観る者の想像力に委ねる傾向が全て共通してて、どちらかと言えば音を聴いて情景を浮かべる感じに近いのかもしれない。これらの映画を観た感想をサラッと述べておこうか。
Case(1)ドロステのはてで僕ら
ある日、PC画面を覗いたらそこには2分先の自分が!未来を知る事への罪悪感と好奇心の狭間に揺れながらも、どんどん人を巻き込み混沌の様相を増していく展開はまるで舞台を観ているかのようにスリリングな群像劇。因みに本作の【2分先の未来の自分と会話する】という設定は『テネット』とは逆ベクトルなんだけど、相通ずる点はあって『TENET』の【逆行世界的でタイムリープ】という複雑な世界だったんだけど、これをニュアンス的に理解できたのは2週間ほど前に本作を観てたから問うのもある。
まぁ【2分先の未来の自分と会話する】という設定は テネット』とは逆ベクトルなんだけど、相通ずるは多い。私的ツボはメグミ役を演じた朝倉あきがヒロインながらもスキあらば笑いを取ろうとしてる点。その意味で本当に舞台を呼ぶ作品である。
本作は「塚口サンサン劇場」で観たのだが、その映画館のオリジナル企画で山口淳太 監督が休憩場にいて質問など答えて下さるという「いますキャンペーン」をやっててメグミの最後辺りのセリフがあまりにリアルで自然だったのでその件で質問したら「鋭いですね。」と褒めて下さったのが非常に嬉しかったか(笑) 。
Case(2)のぼる小寺さん
ストイックにボルダリングに打ち込む小寺さんとそんな迷いなき彼女につい【見入ってしまう】どこか迷えるクラスメート達との人間模様。
台詞抑えめでニュアンスで示唆される彼らの心理描写を補うかのように挿入されるピアノ劇伴がただただ心地良かった。ちなみに本作は私は二回見ている。1登目では工藤遥演じる小寺さんには達観したアスリート的な印象があって、人工の無機質な岩壁に吸い込まれるかのようによじ登る小寺さんに何故誰もが惹かれてしまうのか疑問があったのだけれど、二回目だとより彼女の魅力と人間味が増し、心象風景もクリアになり、きっとあの熱い視線達は「人生全てをかけて打ち込める何か」を誰もが模索していて、そんな彼女に向けられた羨望と願望の気持ちの現れだとも思っていたけど、誰かを応援する事は自己と向き合う事なのかもと思うようになった。
「なぜ君は登るのか?」
彼女だってきっとその命題の答えは分からない。
だからこそ目の前の壁に挑み続ける小寺さんに誰もが「泣けてくる」のだと思う。
Case(3)凪の海
ミュージシャンを夢見て上京するが思うようにならない毎日を送っていた井上圭介(永岡佑)のもとに、漁に出たまま消息を絶った兄の葬式を行うと田舎から電話がかかってくる。東京で成功したとうそをついていた圭介は、渋々故郷の蒋淵(こもぶち)に帰ることにする。そこには父や、兄を最後に目撃した同級生とその妹らがいた。
...というサスペンス込みの実家もの(そんなジャンルあるのかw)だが、狭いコミュニティ故に何か起きるとすぐ情報が共有されてしまう小さな漁村の感じがヒリヒリする。個人的に漁村なるものに縁がない人生なんだけど、九州の片田舎出身の私からするとこの辺りの描写が超リアルだった。どの場面も修羅場の連続でヒリヒリ感半端なかったが凪の表情がふっと解き放たれるのを見てタイトルの本当に意義がリンクする、実はこれって希望の物語だと思う。
Case(4)テロルンとルンルン
個人情報ダダ漏れの田舎町。壊れた玩具を通じ、社会から閉ざすように生きてきた二人の男女のイノセントな出会い...上映時間50分ながら本作に詰め込まれた感情表現や表情のニュアンスが深過ぎて未だ残響音が鳴り止まない、僅か50分ほどの作品なんだけど大傑作だった。勿論ヒロインは小野莉奈で『アルプススタンドのはしの方』キッカケ観に行ったんだけど、もしあの作品を観なくてもやはり小野莉奈 は天才である、と言った事だろう。
予告編から「ルンルン(小野莉奈)がひたすら可哀想な作品」と誤解されるかもだが、実際はあどけなさと気の強さとの狭間に揺れる微妙な心情を保ちつつ演じ切ってて心地良いほどである。そしてそんな彼女を徐々に感情の変化を交えつつ受け入れようとするテロルン(岡山天音)も絶妙である。あと暴論承知で言うが、ツイートで本作は戦争映画だと言った記憶があるが、本作のラストシーンを見るにつけ細かい言及は避けるもののある戦争映画作品をモチーフにしたのかな、と思ったから。その舞台は過剰に怯え、俯き加減に問い詰めてくる大人やクラスメートらが支配する日常という名の戦場である。だからこそそんな破綻した世界に不可視であり続けた2人は魂で共鳴しようとしたのだ。いやほんと、あの日常の言葉が銃声の如く心の奥で鳴り響いている。
あ、そう。私が常日頃から熱狂的に応援している『アルプススタンドのはしの方』もまさそういう系譜の作品なのかもしれない、とあざとく過去の記事を引用しておこうっと(笑)
4.『すずしい木陰』みたび...!?
さて、今回の記事こそさらっと書こうと思ってたがやはりというか案の定8200文字を超えてしまったが、最後に本作品をまたまたまた体感することが確定したニュースが飛び込んできた。10/23(金)京都みなみ会館にて今度はリモートではない舞台挨拶が開催されるそうである。この日の上映時間は19:00。バッチリいけるではないか。直に二人にお会いできるとあって即日ソールドアウトとかならなければ是非伺ってお話を直接聞きたいと思う。
さあ、3度目はあるのか?ってことでこのチャプターは本記事拡張版として余白を残しておこうってそうなるとまたまた更に長文記事になってしまうんだけど、まぁ良いか(笑)
ぜひリピートください!
— 映画『すずしい木陰』 (@suzushii_kokage) 2020年10月14日
23日は #守屋監督、#柳英里紗 さん、京都に伺います!! https://t.co/hWmOembM2G
前回神戸元町映画館で観たのは10月4日、あれから3週間が経過した。
そして今回第三回めの舞台は近鉄線東寺を降りて数分ほど歩いた所にある京都みなみ会館で、京都インディーズ映画の聖地である。
この映画館には過去、2年前に曽我部恵一さんがゲストで来て、横山やすし主演のバタバタヤクザコメディ映画の後に20分ほど舞台でギター演奏するイベントに参加したり、夜8時頃からぶっ通しで岩井俊二の映画を観るオールナイトイベントやら結構斬新な今考えてみても凄いイベントに参加したことがある。
駅に着いたのが4時30分、チケットを購入してモスバーガーやら何やら入り浸ったりで何とか時間を稼いでようやく18:40辺りから入場待ち。守谷文雄、柳英里紗両氏もその頃は既にいらっしゃっていた模様。
そして3回目のすずしい木陰、上映。これで大阪(#シアターセブン)、神戸(#元町映画館)
そして今回の京都(#京都みなみ会館)と関西3都を征服する事になったのだが、つくづく思ったのがすずしい木陰 ほど観る度に印象の異なる作品は無いという事。
まず、初回となる大阪、シアターセブンでは今考えればかなり2箇所に比べ音量をあげて映画作品自体の持つ【混沌性】に貢献していたように思う。
そして2度目の神戸ではその後のリモート舞台挨拶での「今までやらなかった事をやる。(柳)」「何も起こらない映画とは言っても何かが起こってしまってる(守谷)」と言うコメントに符号するかのように映画作品自体のもう一つの側面である【野心性】を感じるようになった。
そしてここ、京都では何を感じたか?スバリ【洗練性】である。
蝉の鳴き声や、ピチョンピチョン鳴く鳥の声(あれ何の鳥?)や風が木々にあたり揺れる様々な夏の轟音達が一瞬で無音に変わる瞬間も、中盤〜後半辺りに柳英里紗がハンモックからふと立ち上がった時に、まるでアニメ『言の葉の庭』辺りで描かれてそうなまるで羽衣のような太陽の光に包まれるシーンも全てが自然と偶然が生み出した精巧に作られたシナリオである事に改めて驚愕する。そう、結論を言えば今回3度目にして初めて【起承転結】を感じたのである。
次はどこで何を感じるのだろう?
『#すずしい木陰』柳英里紗氏舞台挨拶@京都みなみ会館
— ネノメタル⚡️New Analysis of an Account of Anatomy’s (@AnatomyOfNMT) 2020年10月24日
「色んな地方の映画館に行って観に来てくださる方とお話しするのが楽しみで役者やってて、でも今年はそれができなくて...」で始まる締めの言葉は感動した。
映画のみならず全てのエンタメを愛する者達の思いを凝縮した素晴らしいスピーチだった。 pic.twitter.com/YgmYD8c9kc
舞台挨拶で興味深かったのは「ただ寝てるだけ」ではなく増してや何かを仕掛けるでもなく制作過程で何らかの「理想のクオリティ」が共通認識として芽生え始めた点。
— ネノメタル⚡️New Analysis of an Account of Anatomy’s (@AnatomyOfNMT) 2020年10月23日
今回特に
「ハイライト」「クライマックス」を顕著に感じたからこそその真髄を理解できた気がした。#守谷文雄#柳英里紗#すずしい木陰 https://t.co/XpW4dA9TE6 pic.twitter.com/yeGWa7V9Ym
*1:ちなみに上がシアターセブンにあったもので、下が元町映画館にあったもの。ハンモックは柳さんが実際に使用したものが展示してあった。
*2:元町映画館でのトークを聞いて守屋文雄監督と柳英里紗 はまた何らかのコラボがあると期待している。シアターセブンの舞台挨拶でも思ったけど、次回作はひたすら暖炉側で女性が眠る『あたたかい暖炉』かな(ないないw)
*3:鈴木実貴子ズにそう言うのがもしあれば紛れもなく「口内炎」だろうか。
*4:アルプススタンドのはしの方=アルピニストってなかなか浸透しないのは野球文脈のアルプススタンドと山登りのアルプスとでは全く意味が違うからかなぁ?
*5:その意味で『のぼる小寺さん』も『アルプススタンドのはしの方』 も「誰かを応援する事で自己を見出す」という点で恐ろしくリンクする。部員や近藤の熱い視線と声援を浴びる小寺さんは、あすは 達にとって矢野や園田だろうし、何なら眼鏡女子の立ち位置から先生が教訓めいたこと言うとこまで本当似てる。