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時代を投射する鑑となれ、令和四年の夏を象徴する超弩級の傑作『#ビリーバーズ』ネタバレ爆裂レビュー(^_^)

時代を投射する鑑となれ、令和四年の夏を象徴する超弩級の傑作『#ビリーバーズ』ネタバレ爆裂レビュー*1

時代を投射する鑑となれ、令和四年の夏を象徴する超弩級の傑作『#ビリーバーズ』ネタバレ爆裂レビュー

Table of contents

1.スターピースとは?(^_^)

2.センセーショナリズムを超えて(^_^)(^_^)

3.映画作品としてのリアリティフィルター(^_^)(^_^)(^_^)

4. 劇伴・主題歌について考察する(^_^)(^_^)(^_^)(^_^)

付記;リピートの果ての光景(^_^)(^_^)(^_^)(^_^)(^_^)

 

1.マスターピースとは?(^_^)
唐突だが「傑作(マスターピース)」の定義とは一体なんだろう?

大衆の心を撃ち抜く作品だというマジョリティな作品だという意見もあれば、逆にポピュラリティに惑わされずに、ニッチなファン層にも支持される定番作だという意見もあるだろう。

でも、私個人的に用意している答えは、常々「時代を投影する鑑(かがみ)」とならなければならないものだという理想の高さも必要だと思っている。
 具体的には、あの2018年、是枝裕和監督の万引き家族が公開する直前ぐらいの出来事。あの作品の公開を狙い定めたかのように登場人物と全く同い年の女児の虐待事件が起こったりと、傑作であるほど時代の空気を必然的に投射する映画は多いが正にああいう感じ。他にも、新海誠監督の『天気の子』も然り。あの作品における大雨が全世界をお覆い尽くし不要不急の外出が憚れる様子って紛れもなくコロナ禍を予見しているようにも思えるし、他にも岩井俊二監督『チィファの手紙』『ラストレター』にまるでコロナ禍を予見していたかのように疫病を患った女の子がマスクを取って初めてその子の素顔を知って一目惚れする、みたいなシーンがあったでは無いか。あれはまだ今考えるとコロナのコの字もなかった2019年の出来事である事にも驚きを隠せない。あとは、他にも岩井俊二監督作品文脈で言えば『リリイシュシュのすべて』でも今や廃れ切った掲示板の描写がまんまTwitterにおけるタイムラインにトレースできるという意味でも何気に時代にっ寄り添っているのが凄い。

❶『万引き家族』予告編


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❷『天気の子』予告編


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❸『ラストレター』予告編


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(映画『ラストレター』より)

❹『リリイシュシュのすべて』予告編


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そして、ここ最近、ある事件とカルト宗教の洗脳問題が取り沙汰されているが、そこに照準を合わせるかのようなこの公開のタイミングに前述した作品群同様の時代とのシンクロぶりに偶発的事象以前にカルマめいたものを感じざるを得ない爆弾のような作品が振って落とされたのだ

それが今回のブログのテーマ、山本直樹原作、城定秀夫監督作品の

『ビリーバーズ』である。

 

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2.センセーショナリズムを超えて(^_^)(^_^)

映画『ビリーバーズ』あらすじ*2

カルト宗教、ニコニコセンターの信者3人の男女がある孤島で共同生活を送っていた。

男の一人は「オペレーター」(磯村勇斗)、もう一人は「議長」、女は「副議長」と互いに呼び合い、同じデザインのTシャツを着ている。ニコニコ人生センターという宗教的な団体に所属する彼らは、「孤島のプログラム」と呼ばれる無人島での共同生活を送りながら、安住の地へ旅立つためにさまざまな日課をこなしていた。

(^_^)オペレーター( acted by 磯村勇斗)

オペレーター:本名、丑山(うしやま)。『孤島のプログラム』における『第一本部』との通信担当。禁欲の修行生活で、遵守し続けたがふとした事がきっかけで....

(^_^)副議長(acted by 北村優衣)

本名は菱子(ひしこ)。暴力夫から逃げ落ち、『孤島のプログラム』に参加する唯一の女性。修行に没頭する生真面目かつナイーブな一面があるが、どこか天然っぽい一面もある。

 

(^_^)議長(acted by 宇野祥平)

『孤島のプログラム』の責任者。のち、要注意人物として『副議長』に解任される。禁欲まみれの修行生活だが、どこか煩悩を覗かせる一面も...。

ストーリーの内容はほぼほぼ原作通りで3人のあるカルト宗教、ニコニコ生活センターに所属して、完全に頭がやられた議長・副議長・オペレーターなどと本名ではなくホーリーネーム的、役割的な(?)分担名で呼称し合う3人の男女(磯村勇斗、北村優衣、宇野祥平)が世俗から断ち切られた禁欲生活を余儀なくされる無人島での修行生活をする最中、日々の“夢の内容を報告し合う事で修行に磨きをかける日々、ふとある事がキッカケで外れてしまったタガがキッカケでそこから堰を切ったように3人の人間関係に歪みが生まれ、我慢の極限にまで達していたフラストレーションが爆発して破滅の末の崩壊の過程へと導かれていく様がこれでもかと容赦なく描かれている。本作を彩るものは
「カルト」「宗教」「信仰心」「洗脳」「解脱」「煩悩」「食欲」「性欲」「性衝動」「嫉妬」「軋轢」「暴力」「殺害」「聖地」「涅槃」「死」
ーなどなど本編を覆い尽くす要素は悉く生々しくドロドロしそうなものばかりである.....にも関わらずである。なんなんだこの鑑賞後のこのなんとも言えぬセンチメンタリズムとある種のスカッとした高揚感で胸が一杯になってエンドロールを迎えてしまうこのcontradiction(矛盾)よ。

ああ、そうか!思い出した。

この感触は紛れもなく城定秀夫監督作品のあの空気感に他ならないではないか。

2020年、一昨年のコロナ禍初期のあの夏を思い出した。というのも城定監督の(全く趣きが異なるように思える青春高校野球群像劇)「アルプススタンドのはしの方」を鑑賞後のエンドロールを迎えたときのあのセンチメンタル込みのスカッとした感覚と全く同じだったからである。

nenometal.hatenablog.com*3

城定監督関連作では当然というか要素としてR15指定などが入ってエロティックな描写などがあったりするが、正直『愛なのに』『猫は逃げた』ではその要素がどこかなくても良いとは言わないが少しストーリーに対する集中力から気を逸らさせてしまうように思えて仕方なかった。特に『愛なのに』の方は、あの今泉力哉監督特有の「古本屋」という半ばインテリ入ったサブカル領域の空間から、突如生々しいラブホでの性行為の描写とのギャップに少なからず違和感を覚えたし、『猫は逃げた』に至ってはあの種のラブシーン一才抜きでも、会話群像劇だけでも十分、いやむしろ下北「劇」小劇場あたりであのメンツで演劇など上演したらもっと楽しめるのでは、と思ったほど。まあ実現の可能性はともかくとして。

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そこへいくと、今回の『ビリーバーズ』ではその濡れ場というものに余剰どころかむしろ必然性を感じてしまう。というのもやはりこの話は「カルト宗教」が舞台だからというのが大きい。正に本編でもあるようにカルト宗教の下地にあるのは洗脳という概念があってそれに至るための仲間同士の結束、そして修行やお布施という行為へと行き着いていて、その裏には必ずといって良いほど煩悩との訣別という概念が背後にあるではないか。

現にセックスと教団の教えなどとを結びつけたものは多いし、ってか昔世を騒がせた某鳥の名前の教団の愛人作りまくってたあの教祖なぞ鑑みてもそれが全てのような気もするぞ。

それにしても、先で述べたように、この種の作品を見た後の「コンテンツテーマのヘヴィさをひきづらなくて、いやむしろサッパリする感じ。」がする理由はなんだろう?

これはきっと、城定監督特有の持ち味というか、カルト宗教を土台にしようが、過激な濡れ場がトドメのように多発しようが、応援する対象が甲子園という舞台でバットを振って直向きに頑張る爽やかな球児ではなく「修行」と称して副議長の全裸フェラチオというむしろ相手のバットを咥えて耐え抜く信者仲間に対しての声援であったり....とその趣きは大きく異なるものの、パッと開けたエンターテイメントとして軸がしっかり成立してそれをストレートに受け取れる感じってのがあってそれは城定英夫という表現者の核なのかもしれないのかもとか思ったりしている。

 

3.映画作品としてのリアリティ・フィルター(^_^)(^_^)(^_^)

 ....にしても、である。3人のメインキャストの演技が凄すぎて本当に彼らは洗脳されてるんじゃないかと思ったほどである。特に副議長が淫夢を見てしまっただかなんかで、残りのの二人が「修行が足りない!!!!なんで今まで隠してたんだ!!!!!!!!」などと喚き散らして責めたてる場面など*4、鬼気迫るほどのど迫力であった。いや、ホントのカルト宗教でああいう事よくあったりしてそうだもんなって思うぐらいのリアルさ。

人はとくよく体を張った演技とか迫真の演技力とか言われるが多分彼らは撮影していく中で原作漫画の登場人物が取り憑いてしまっていたのだと思う。
 ほんとに3人ともメイキングや舞台挨拶やインタビューの写真を見てもとても丁寧で物静かな印象すら受けるくらいで表情や仕草がまるで違うのに驚く。

以下の舞台挨拶時の動画にてご確認いただきたい。


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 特に、メインキャスト中唯一の女性信者である副議長役ってか、ヒロイン役を演じた北村優衣氏の役者根性ってか身体を張った迫真の演技には圧倒されたものだ。
彼女のどこか宗教に簡単に洗脳されやすいナイーブさや人間としての弱さや緩さを持ち合わせといて「私(服を)脱いじゃいました^_^」みたいに素っ裸になってぶっちゃける天真爛漫さも共存してるキャラクターってのも世界中どこ探してももうこの人しかいないんじゃないかってくらい適役である。あともう言えばキリがないが宇野祥平氏の演技なども熱弁余って唾液が髭にかかるあの感じや執拗に相手を追い込む様子からもうリアル過ぎて迫真すぎてヤバすぎるし、主人公の磯村勇斗の、副議長が時に見せる「女性」としての仕草や表情に、押さえ込んでいた性欲が堰を切ったように大爆発するまでのハッとしたあのクールに抑えたあの表情も逆にリアルである。

まとめていうと、メインキャスト皆どこか感情移入ポイントを持ち合わせていて魅力的なんだな、本作はキャラクターの照準に合わせて観れる極めてリピータブルな作風だと思う。

もうこれは私がここで断定せずとも誰もが思っている事だろうだが、多分この彼ら3人(磯村さんはもう既に売れっ子の域にある人なのかな?彼のファンであろう女性ファンも多いし)は今後はこれを機にもっともっとメジャーストリームに躍り出る存在となるだろう。

そう、城定監督文脈で言えば『アルプススタンドのはしの方』の主演小野莉奈が今や大河に出演するまでの売れっ子女優になったように。

それはそうとこうした映画としてのリアリティを考えたときに思い出すことがある。2020年の9月13日、それこそ『アルプススタンドのはしの方』シアターセブンでのリモート舞台挨拶にて監督は鑑賞者からの「なぜ真夏の話なのに全員そんなに汗だくじゃないのか?」みたいな質問があって城定監督は【夏の球場での熱さのリアリティを追求すると全員が汗びっしょり状態になってしまう。そこは映画として成立するリアリティを優先した。】と答えられてたのは大いに納得がいったものだ。これ通常の40度近い暑さだと、宮下さんが貧血になって倒れた瞬間のあの一筋の汗の意義が成立しなくなるものね。

これがドラマや映画に対峙する際に用意すべき「リアリティ・フィルター」というべきか。そう考えると本作でも何日も風呂に入っていないであろう信者3人は特に副議長のばっちり綺麗にメイク施したような顔だとか、後裸体の異常なまでの美しさもリアリティに欠けまくっているだろうし、オペレーターの欲望に耐え抜く表情もちょっと冷静すぎるではないかとも思ったりしないでもないが、あの場面では全てが普通のリアリティではなく、映画における「リアリティフィルター」をかければ全て合点がいく。

やはりそこではいくら原作を忠実に再現した作風であっても原作とは違う映画としてのオリジナリティが保たれているのだと思う

そういえば、更に思い出す作品がある。

 ズバリ、2018年ごろだろうか、行定勲監督による岡崎京子氏の漫画を実写映画化した2018年の傑作リバーズ・エッジである。どちらも90sから語り継がれている漫画実写という高いハードルを超えて生まれたものだが、前者はあの淀み切った川、草陰の宝物のあのグロさ、若草さんのしかめ泣きっ面、吉川さんの名セリフのザマアミロ感、山田くんの相手する親父の腹のでっぷり具合からあのエロもこのグロも、まさに考古学者が埋葬されたミイラを発掘して分析するかの如く細部に至るまで忠実に再現されていた


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それに対し『ビリーバーズ』にはそのような原作完全再現作にとどまらず監督の原作への思い入れや拘りが色濃く感じられたように感じた。もう一つの大きな見どころはラスト付近のシーンで、この孤島での結局は実験データと化していたこの3人以外に、ニコニコ生活センターの教祖様(原作者の山本直樹氏だったりする)ともども厳選されたとは言え、物凄い人数の信者が押し寄せてきて、安住の地へ向かう過程の中で、一時的に孤島での共同生活をスタートさせる、という展開になるのだ。

とは言え「孤島での生活」と言うのは表向きの企画で、実はこの宗教自体存続に危機に瀕していてカツカツ状態ゆえに、この島での集団自殺を行うのというのが実情らしいのだ。

そこで、何となくその情報を察したオペレーターが突如反逆を始め、そこからの銃弾戦へと雪崩れこむ。
で、問題はその後。
 結局は教祖様もろとも、あの副議長も撃たれて死んでしまうような描写があるのだが、本当に彼女は死んでしまったのだろうか?それともまだ生きているのだろうか?と疑問視せざるを得ない不思議なシーンがあるのだ。
オペレーターはその後逮捕されて独房にいる場面と彼女がボートを漕いでいる場面が交互に何度も挿入されるのだ。
 容易に推測するにこのボートのシーンは既に三途の川に渡ってしまった副議長がオペレーターと再会しにきたのかとも思ったり、単なる夢オチなのかもと思ったり....でもそもそも夢オチだとすると教祖様が孤島に乗り込んだ後の銃弾戦辺りから例の強制終了の描写もあったりして、どこからどこまでは非現実なのか曖昧な面もあり、めちゃくちゃ混乱してしまうのだ。

更に、である。 その中盤あたりのシーンで議長は副議長から「ポプラン(☜それは違う映画だろw)」を噛みちぎられ死んでしまった、と思っていたのに、実は生きててクーデターを起こしてたりするシーンなどもあって現実と非現実の狭間がよくわからないのだ。
あのシーン観てふわっと『ブラックスワン』のラストシーンにも似たサイケデリック感だと思った。

*5
まだ現時点で本作は一度しか観ていないのでこの辺りもう一度確認してみたいな。
*6

まとめると、とかくカルト宗教だ、洗脳だ、濡れ場だのセンセーショナルな側面が取り上げられがちだな本作だけど、【原作愛と映画作品としてのリアリティとプライドを突き詰めた令和四年の夏を象徴する傑作】だと断言して本レビューを締めくくりたい。

 

4.劇伴・音楽について考察する(^_^)(^_^)(^_^)(^_^)
 あ、そうそう最後に劇伴と主題歌について触れよう。邦画にしては珍しく不穏な音像で信者たちの心の揺れを描いたり、時に駆り立てたり、にも関わらず映画本編の画を邪魔しない絶妙な劇伴がひたすらカッコ良い。と言うのも以前からの城定秀夫監督のファンでもあると言う音楽家サニーデイ・サービス曽我部恵一が担当しているからだろう。

全曲BELIEVERS1から曲順通り『BELIEVERS1~26』と付されたタイトルのインスト曲の中で、『BELIEVERS2』『BELIEVERS3』と付された曲は、各々初期のBoards of Cabadaかエイフェックス・ツインのようなアンビエント風のものもあったり、アイスランドオルタナティブのような曲もあったり、『BELIEVERS10』のようにジャズ・インプロビゼーションのような曲だったりとソロ・バンド含めあれだけの膨大なディスコグラフィーを誇る曽我部氏であってもここにある音像には驚くほど既視感はなくて、まるで「新境地感」すら漂うほどである。現に私は彼の音源もコンプリートしてて、ライブに10回ほど足を運んでいるので過去の音像のバリエーションは認知しているつもりである。


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そして唯一の歌もののタイトル曲は『僕らの歌』という曲である。


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この、エンドロールの主題歌『ぼくらの歌』では彼のソロのみならず、バンドなどのキャリア問わず持ち味である『Sometime in Tokyo City』などの日常を普遍性へと浮かび上がらせる系譜のextravertな楽曲群とは違って、どちらかと言えばintrospective(内省的)な曽我部恵一BAND「月夜のメロディ」辺りに近い感じがする。

さらにザラついた感じのボーカリゼーションとを披露することで本作の騒ついた混沌の世界から垣間見えるピュアネスが浮かび上がる本作と完全に付合している、というかこの3曲ってどこか曽我部恵一ディスコグラフィーの中でも表裏一体感あるよねとか思ったりしているがどうだろうか。

にしても兎にも角にも映画本編とのこの相性の良さは曽我部恵一にしかなし得ない奇跡のコラボだと断定して良い。本曲を聴いて分かる通り彼の必殺技であるメロディアスな展開の中で。本編で盛んに繰り返されるニコニコセンターの会歌「みんなの歌」のフレーズ「みんなみんなみんなみんなのために頑張りましょう」というフレーズが何気なく、あくまでシニカルなニュアンスながらも自然に挿入されてる所などとても研究され尽くしてるなあと感心してしまった。


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付記;リピートの果ての光景(^_^)(^_^)(^_^)(^_^)(^_^)

ここ最近9月で閉館の噂ってか公式アナウンスのあったテアトル梅田にて、二回目を鑑賞した。もはや2回目となると様々なシーンのインパクトにはもう免疫があるのでメインキャスト3人の心象風景にクローズアップして鑑賞する事ができた。

中でも副議長(北村優衣)は、最初のDV夫、第三本部長、そして最終的には先生と呼称する教祖様と、人に何度も何度も裏切られ、それでも信じ続けようとする性格だからこそオペレーターにどこか寄りかかるような共感しているような、人懐っこいような表情を浮かべるのだろうなと思ったりしし、そして今回それをとてもヒリヒリと狂おしく感じた。

そして今回更に思ったのは北村優衣という役者は『ビリーバーズ』で際どいシーン連発なのにちゃんと映画としてのリアリティを遵守した上でのエンターテイメントを意識したラブシーン(塗れ場)を展開している点である。個人的に「濡れ場」ってそんなに必要不可欠なものだと思わなくて、それらが多すぎるとどこかストーリー全体が入ってこない気がしていつもそんなに好きではないんんだが彼女に関しては特例中の特例。相当演技の下地のある人だろうな。

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そして今回それと同様に気になったのがあの一回目見た時めちゃくちゃストイックな修行一辺倒に見えたあの議長の俗っぷりな。結局最初から副議長に好意を寄せてて、オペレーターにどこかライバル心を燃やしてたんじゃないかって思ったな。現に二人が愛し合ってた場面に遭遇して「最悪の事態が起こった。」とか言ってたし、その前に嫉妬心剥き出しで双眼鏡でも覗き見してたしな。

その議長が最後の最後、役を降ろされ、開き直ったかのように「そんな事どうでも良いんです。」「僕と結婚しましょう!!!!」となどと暴露告白してたのもとても印象に残った。結局彼が欲しいのは信仰心でも日頃のトレーニングによる成果でも「夢の物語」の小説を仕上げる事でもなく【愛】なのだろう。

この映画はテーマやシーンインパクトが取り沙汰されるがその仮面を取っ払えば純粋なまでに真の意味での【ラブ・ストーリー】なんだと思う。

そして結局この展開は、ビリーバーズ の行き着く先となる

「【安住の地】とは何か?」と言う命題に繋がってくるように思う。

もうハッキリ言えば「安住の地」とはなくてあったとしても全くの「無」の世界、もっと言えば「死後の世界」ではないだろうか。

ニコニコ生活センターがあの島にて最終的に選んだ選択肢は【集団自殺】であったのもハッキリそれ、と示唆どころか明言してるようなもんだし、もうそれ以上もそれ以下もない「無」の世界。

そして昨日2度観てハッキリ分かったのは副議長はもう「みんなのために頑張りましょう」という遺言を残して「死んでしまった」という歴然とした事実だ。

そこで独房に入れられたオペレーターが瞑想して唯一逢いに行ける場所があの川辺に浮かんだボートの上なのだ。これは映画にもあるのだけれど、原作を読んでよりハッキリとわかったのだが、あのボートでのシーンは幻である事がわかる。というのもあの場面で副議長(というか菱子さん)は不意に裸になるのだ。その後、漫画の方はボートの上で性行為を行うのだが、それが現実性を超えたニュアンスで描かれているし、オペレーターは独房ではその夢の世界とは違う丸坊主のストイックな姿になっているのだ。この辺りは原作と映画との決定的な違いの一つとも言えそうで「あえて曖昧にしておく事によってどのように解釈するかは鑑賞者の自由」であるという、ここは映画版のオリジナリティへの拘りというか、城定監督の意向なのかもしれないとも思ったり。話は戻るが、ボートを漕ぎながら二人は「ニコニコ生活センターの信者として過ごしたあの頃」について語り合うのだ。海水と貝だけの塩味のうどん的パスタ....などなど過去のニコニコ生活センターでの孤島生活をひとしきり懐かしんだ後で最後の最後に副議長は以下のように問い、オペレーターはこう答えるのだ。

副議長「どこまでいくの?」

オペレーター「向こう岸までさ。」

その彼らの行き着く先にある向こう岸まで到着した後の光景、そこに彼らが求めたエルドラドとも言える【安住の地】がそにあるのではなかろうか?

という憶測にも似た妄想を最後に仄めかすことでこの10047字にも及んだ今回の記事に幕を閉じようと思う。

 

 

 

*1:本エッセイはFilmarksの本作に関する該当記事に加筆修正を加えたもの。

filmarks.com

*2:本作品は一部を除いて山本直樹氏による原作漫画『ビリーバーズ』1・2巻は割と忠実に再現されていると思う。よって映画鑑賞後に読んだほうが個人的にはおすすめしたい。

*3:この時も"超弩級"とタイトル打ってるのね、てか確信犯だけどw

*4:ほんとはあそこ男二人嫉妬か興奮してたんじゃないか説あり

*5:そう考えたら『ブラックスワンて作品は『ビリーバーズ』に近いのかもしれないな。とちょっと思った。


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*6:本記事仕上げて翌日7/20に2度目鑑賞したがこの辺りのシーンほんと深いと思う。

『#愛なのに』(#城定秀夫(監督) × #今泉力哉(脚本))に関する覚書📙

「答えは風に吹かれている」と言われればそれまでだが本作はあまりにも答えのない風に吹かれすぎた印象。

0.preface
公開1週間経って今も尚、SNSのタイムライン上で大絶賛の声が止まない。昨日(3/8)平日の18時という中途半端な時間にもかかわらず、テアトル梅田では半分以上の席が埋まっていて、客層もいかにもなインディーズ映画ファン(察し)から若いカップルから阪急デパート帰りのような年配のご婦人に至るまでバリエーションに富んだ視聴者層だったように思う。
いわゆるスマッシュヒット感ならではという雰囲気が劇場を充満していた感じ。
さて、本レビューでは多少長くなるが本作を観てあるがまま思った事を正直に語り尽くしたいと考えている。


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1.Overview
ストーリー展開は

【ある30代の古本屋店主(多田)の元に何故か高校2年生ぐらいの女の子が彼に求婚するぐらいに思いを寄せていて、その彼にはフラれた憧れの女性がいて未練を断ち切れず、でもその女性(一花)は結婚間近で、その旦那になる男(亮介)はその結婚式を担当しているウェディングプランナー(美樹)と不倫関係にある。さぁこの群像劇の織りなす愛の行方や、いかに?】

というもの。

 

正にジャンルレス感満載で、恋愛小説も青春漫画も、官能小説も、あと殴り合いのシーンもちょいあるから格闘技もの(?)も一つの棚に同居する、まるで(こじ付けていう訳ではないが)この話の舞台である街の古本屋にさながらいるような空気感がとても心地良い、サブカル雰囲気映画の象徴のような作品だと思った。
いや確かに、TL上で主人公さながらの丸メガネちょび髭生やしたような、あ、あとベレー帽みたいな帽子も被った自称映画マニアみたいな連中が希少本を崇めるようなしたり顔大絶賛する空気はわかる。カタルシスは皆無だが語るに値する(シャレみたいなw)作品である事を前提として以下、吠えまくるつもり。

『街の上で』とのシンクロニシティでもふと思い当たる節がある。
この感触って本作の監督を担当してる今泉監督の『街の上で』さながらなんだよね、と思ったものだ。まあそう言う言い方をすれば年間ベスト10に選ぶ人が多いほど高評価された作品だから「それなら良いじゃん。」という人も多いだろうが私個人はあの作品観て全く心の隙間ほど掠ることのない「凡ヒット作どころか空振り三振送りバント大失敗作」として認知している事に注意したい。
何がそこまで私を絶望の淵に落とし込んだのか、主にあげれば以下3点である。

❶「あの...」「え、ええと...」などの言い淀み表現なども含めた長回しによる会話セッションでリアリティを醸し出してるのは良いが、それが違う場面切り替わって次の場面にきて更にまだ続くのが異常にしつこく感じて逆に不安すら(後少しの怒りも)覚えるほどだった。

 

❷で、そういうリアリティを重視しておきながらも妙に途中コントみたいな警察官とのやり取りがあったりとか、終盤にきて特にコメディタッチになったり、結局優柔不断な友人の買い物に付き合わされるような何とも言えぬ全体的なブレブレ感は否めなかった。要するに「笑いの要素も貼っとけ」みたいにペタペタと付け焼き刃でラベル貼った感じ。

 

❸これは❶❷を含む全体論になるんだろうけど、他にも恋愛要素も足してたり、人生を考える的なシーンもあったりと、様々な要素があるんだけど、それらがペタペタと映画作品全体を彩る飾りにしか見えずこれらが最終的に何の収束もせずにケムに巻かれてエンドロールを迎えた印象。


「結局この監督この映画を通じて何が伝えたかったの?」って言う巨大なクエスチョンマークだけが宙に浮かんで終わったものだ。

 

3.『愛なのに』Criticism
で、すっかり『街の上で』論になってしまったが、それと全く同じような印象を本作にも思った次第。
上記❶❷❸をあてはめると、『街の上で』ほど放送事故レベルではなかったが ❶の長回しシーンは相変わらずあったけど、どれもに必然性が感じたし、超がついて不安になるほどの長回しはなかったので置いといて問題は❷と❸である。

確かに本作には様々な要素が混在している。繰り返すが女子高校生の純愛のような恋愛小説も、あと女子高生をめぐって奮闘する高校生の青春漫画的要素でもあろうし、濃厚なSEXシーンがバンバン繰り広げられる官能小説や成人漫画的でもあろうし、あと殴り合いのシーンもちょいあるから格闘技ものの要素もあろうし(ここは強引ですw)、あと妙にリアリティのある会話なのに、途中急に取ってつけたような「結婚とは家族を見せ合うもの」だ、「愛を否定するな!」などの多分脚本サイドがしたり顔で思いついたであろう文脈上妙に浮き足だって聞こえた名言風のセリフ、などなどそれ全体がいかに『愛なのに』というタイトルを受け皿に収束するどころか結局そこへはいかずバラバラに溢れすぎやしないかと思ったものだ。逆を言えばそれぞれの要素が各々の分野で空中分解して炸裂していったみたいなイメージ。
或いは、そういうジャンルというラベルだけペタペタ貼っただけで非常に様々な要素が多種多様に混在してるだけの薄っぺらな印象をも感じたものだ。いや、これは「伏線回収されてないから分かりにくい。」とかどうという単純な事を言っているのでは決してなく、もっと単刀直入に言えば結局「高度な編集技術」と「巧みな役者の演技力」と、「会話劇から出る名言風の台詞の妙」と、意味深に聞こえるタイトルの元で「鑑賞者に対して伝えたいメッセージやシーンをぶつけたいのだ」という魂が震えるような瞬間が残念ながら本作からは微塵も感じられなかった。もっと言えば。映画作品を観たというより「映画というもの」を見せられた感じ。【お手本としてテイの良い映画という雛形】を見せられた感じ
 さあ、かなりしつこいがもっとわかりやすいメタファーを用いて言おうか。
高級食材をバッと並べられて「これ良いでしょ?これはどこどこ産の肉で、これはレアな魚介類。そしてこれは新鮮な野菜。
全て美味そうでしょ?」と自慢された感じ。でもこっちは「いやいや確かに食材は良いんだけどこれがどう調理されてそれ食いたいんですけど。」って感じ。
やっと伝わったか?(笑)
 てか私がここまで言うのも、2年前、城定秀夫監督文脈で言えば『アルプススタンドのはしの方』にて「矢野君」の名前が甲子園球場で轟かせた瞬間であるとか、或いはキモハラ課長の文脈ではあのラスト付近のど迫力の格闘技のような物凄いSEXシーンとか、ああいうハイライトのような、観るものを圧倒させるシーンてか、瞬間だか、セリフだかが本作にももっと欲しかったと思った。

4.Grand conclusion
という事でまとめると、本作には様々な要素がありつつも、これらがいかに収束するのか期待してたが、最終的にタイトルの曖昧性と共にはぐらかされた感はあって個人的にはそこが肩透かしを食らわされて残念だったって話。
良くも悪くもあの『街の上で』のエッセンスを城定監督の高度な撮影技術のインパクトでもって更に進化させた作品なんだろうし、そこが達成されれば大成功なんだろうし、あの『街の上で』を好きな人にとってはきっとどハマりなんだろうってのもよく分かる。
でも私の魂は残念ながら一ミリも揺さぶられなかったのだ。

あと最後に具体的なシーンに関して気になった2点を論じるとまず

❶【一花が神父への懺悔したり何故か相談のシーン】である。
あのシーンは確かにその後のキーとして重要なのはわかるが、それより気になったのがあの時、一花がちょっとトイレにと出ていき、長時間取り残されたであろう不倫関係にある亮介と美樹はどんな会話をしてどんな表情をしてたのだろうってのは気になるが本編では完全スルーされていた点。
更にあの神父のシーンてのもちょっとコメディ入ってて『街の上で』の警官のシーンを思い出したんだけど、あのシーンですら蛇足感は否めないとも思った。
我々が観たいのは不倫関係の2人が取り残されたあのシーンだったんじゃないの?と非常に疑問に思ったが他の人はどうだったんだろう。

❷あと本論とはハズれるんだけど、人気バンド「ゲスの極み乙女」のリスナーがTwitterフォロワーなどにもにいないから実際の所よくわからないのだが、苦悩のフィアンセ一花を演じたほないこか(さとうほなみ)氏でのあの特に2回目の方では鬼気迫るってくらい超官能的な濡れ場体当たりシーンが超絶凄かったんだけどそれほど界隈ざわついてなさげなんだが、これがめちゃめちゃ不思議ですらある。

 

本作観た後彼女のライブパフォーマンスでのドラミング表現力に対する視点がめちゃくちゃ変わってくるんじゃないかとすら思ったほどだったから。

では最後の最後に、0.はじめに に戻るが
「この構成の妙技と秀逸なカット割がお見事」
「群像劇の織りなす会話劇が稀有な作品。」
などなど分かったような分からんようなそれこそ今でもTwitterのTLで主人公さながらの丸メガネちょび髭生やしたような自称映画マニアみたいな連中の希少本か骨董品を崇めるようなしたり顔大絶賛の空気が蔓延している。本作には連動作品『猫が逃げた』も東京では既に公開されており、今も尚そしてこれからもしばらくはこの絶賛の嵐は収まる気配はないだろう。
 でも私はこの絶賛の嵐の中、こう宣言したい。「それが人生だ。人生は映画みたいなものさ。答えは風に吹かれている。と言われればそれまでだが本作はあまりにも答えのない風に吹かれすぎた印象は拭えなかった。」と。

と、ここまで4000字ぐらい一気に書き殴ったが、『愛なのに』はこんな風に色々とごちゃごちゃあーでもないこーでもないって反芻する作風であって私はウッカリその手中にハマっているのかも知れません(笑)

 

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日常の何気ない光景が「普遍の真理」に変わる時〜 #Anly「Homesick」、 #天野花「渚」、#タカハシリツ「たそがれメリーゴーランド」を中心に

日常の何気ない光景が「普遍の真理」に変わる時〜#Anly「Homesick」、 #天野花「渚」、#タカハシリツ「たそがれメリーゴーランド」を中心に

The Table of Contents

1. Anly sings『Homesick』

2.「Homesick」と共時する楽曲3選

❶Taking My Time

❷Rainbow

❸VOLTAGE

 

3.日常を普遍化するポップス

case1 天野花『渚』『おじいちゃんの歌』

case2 タカハシリツ『たそがれメリーゴーランド』『宇宙飛行士になりたい』

 

 4. The origin of Anly

 

1. Anly sings『Homesick』

これまで、私はこのブログ内でSSW、Anlyに関する記事は他のアーティストに比べても数多く書いてきたように思う。

以下、ライブレポからメディア進出論に至るまでざっと過去の彼女に関する6つの記事を一挙に挙げておく。

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なんというか、このAnlyというアーティストはある意味つかみどころがない人で、これだけ多くの字数を費やして語っても未だにはっきりとは定義できていないのが実情である。言うなれば、楽観的とでも形容しても良いくらい明るい人かと思えば、ふと「KAKOOII」「DAREDA」などの歌詞の一部分において内省的な側面も窺えるし、更にライブアクトでベテランアーティスト化ともわせるような余裕と天才的なプレーで観客を魅了するかと思えば、ステージ上で着ているトレーナーにテニス・プレーヤーが描かれているからと言って「テニおじ」などと言ってはしゃぐキュートな一面なども垣間見せたりと、本当プロフェッショナリズムとヒューマニズムの塩梅が本当に絶妙すぎるのだ。いわば、アイコンとしてのキュートさとプレーヤー的かっこよさとイノヴェーションとの共存.......こんな音楽家もしかしてザ・ビートルズとかあの辺以来なんじゃなかろうか?こうしてAnly の音楽を3年ほど聴いてきて、例の人気音楽番組「関ジャム」でのループペダル演奏でのトレンド入り以降徐々にではあるが知名度だとかライブキャパシティーが順調に上がってきているのをSNSや会場の熱気などからも十分に感じるし、それに反比例して逆にどんどん歌詞や歌声がより自然体かつニュートラルになっているのも同時に感じたりもして、現在続行中の47都道府県49公演という壮大な弾き語りツアー「いめんしょり」においても客との近さをアピールしたライブを開催しているのも少なからず影響しているように思える。

  そんな絶妙のタイミングで、日常的な光景を世界レベルのサウンドプロダクションに当てはめる事で普遍的なグローバルポップスとして成立させようとする野心的な試みを仄めかしているような新曲が5/18に配信という形でリリースされた。

この『Homesick』、パッと聴きそう派手さはないものの様々な要素を内包している曲だと思う。どこかアレンジの洗練性は言わずもがな、どこかメロディに泣きの要素もあったりどこか地元沖縄を思わせる感じもしたり、全体としてグローバルなポップスであらんとする意識もしっかりと見え隠れするのだ。いわば、「コンテンポラリーなR&B要素含んだJ-pop」といった趣のいろんな要素を含んだ楽曲だといえる。

 そしてJ-popといったが、Anly 『Homesick』のイノベーションは既存のJPOPが洋楽コンプレックスかれ見よがしに英語を紛れ込まれるものが多かったのだが、日本語もしっかりと言葉として組み込まれている。

この多要素感の所在を確かめるべく配信日と同時に公開されたMVを観てみよう。


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最初正直「ハイハイ、一人暮らしの女の子のスタイリッシュなMVですね。」と先入観バキバキでを括って望んでいたが、これがもう観てみると良い意味で大きく予想を超える代物だった。

本MVにおけるツボをいくつか羅列すると

0:46で、洗濯物のカゴを足で蹴飛ばし避けたり、お茶飲むのに沸騰した鍋から直接マグカップティーバック入れてお茶飲む感じとか、前の晩にカレーだかシチューだか作って食べてその容器がなおざりにされていたり、一人暮らしを始めたばかりの「あるある」事項ものの見事に細かく描写されている点。
本MVを制作している吉田ハレラマ 氏はいつもリリックと映像との融合ぶりに独特のセンスを感じるのだが、今回も1:10辺りでトースターからパンの出る瞬間に【いつも自問自答 これで良いんでしょう?という歌詞のでるタイミングのシンクロしている点や、かと思えば0:49辺りの【溜まってた洗濯物と格闘している土曜日】のくだりでリリックの出すタイミングを微妙に遅らせる絶妙感だったりある意味映像とリリックとが同時に語っている感覚を覚えるものだ。(付記;このリリックvideo初めて観た5/18〜5/23日の本ブログ執筆時には確かに遅れてたのだが今日(5/24)観るとリリックのでるタイミングがしっかり治ってる。絶対ここは遅らせてたという自信がある、だって何度も観たもん(笑)。もしかしたら修正を施したのかもしれないが、その時私はそう思ったのでこの時のリアルな気持ちをここに記しておく。)
2:31で足で洗濯機の上の洗濯バサミがバタっと落ちるシーンがあるが、こちら設定上歌詞に出てくる「あなた」が死者だったとしてふとその人が彼女の元にやって来て【見守っている】て事を知らせてくれた、と解釈が可能なのかもしれない。この時彼女はふっと焼きあがったトーストを頬張りながら気づいたような微妙な表情を浮かべるようにも思える。
❸と連動するかもしれないが、ラスト風船が飛んでいくシーンも【霊的なるもの】のメタファーではないかと思ったりして。「霊としてのあなた」と言うよりもこのmvではあくまでリリックビデオなのでここで一切姿を見せない歌い手Anlyだったする事も考えられる、というのも『VOLTAGE』においても彼女自身が黒い風船を飛ばすシーンがあって、そう言う場面とのシンクロがのちに大きな意味を持つように思えるから。

その他、晩飯に食ったカレーだかの食器の汚れ具合にリアリティーあってトータルで「一人暮らし始めたばかりの女の子がホームシックになって...」て話なんだけど、恐らくは地元沖縄から離れて上京することになったAnlyの実体験がモチーフとなってから生まれた楽曲だとは容易に想像できるし、実際本曲の原型が披露されたのは割と初期のデビュー当時のリリースイベントでのライブだと記憶している。

一人暮らしには慣れたけど
一人ぼっちには慣れてないそっちの天気はどうですか
蝉はもう鳴いてるのかな都会は日陰を歩いても
ちっとも涼しくならないどのくらい経つのかな
あなたにサヨナラと手を振ったあの日から(あなたにただいまと抱きついたあの日から)恋しくて恋しくて眠れない
なんて言えない 私Home sick

注目するべき点はこの「恋しくて恋しくて眠れない なんて言えない  私Home sickというフレーズでパタリとエンディングを迎えるのが特徴である。普通こういう「一人暮らしを始めて1人寂しい5月病のあなたへ」というテーマの曲だとどこか歌い手側から「寂しくないよ、もう大丈夫。」とダイレクトに語りかける歌詞が垣間見えるものだが本曲の

真面目に生きてればもう大丈夫

というフレーズは【あなた】からの間接的なメッセージとして歌の中で客観的なメッセージとして示唆されている程度である。

.............も関わらずである。本曲の行間から溢れてくるポジティヴィティが感じられるのは「太陽系シンガー」或いは「白く明るいCocco」はたまた「Anly晴れ」なる言葉は存在する様に天性の外交的な(extravert)資質のあるAnlyというミュージシャンが歌っている事がとても大きいのではなかろうか。ここで「もう大丈夫だよ」など逆に取ってつけたようにポジティブなフレーズを挿入すると曲のリアリティが瞬く間に崩れてしまうとすら思えるからだ。
その点から考えて、本MVにもハッと気づく点がある。

本当に観れば観るほど味のある「スルメMV」だと思う。

都会は日陰を歩いてもちっとも涼しくならない

という歌詞にも最初個人的に韻を踏む歌詞が好きだったのだが最近はこのフレーズが心の琴線に引っかかっている。単に地元沖縄と東京の気候事情の相違を歌っているのではなくて都会の人に単に地元沖縄の気候事情ってんじゃなくて都会の人にありがちな「本音と建前」を示唆してるんじゃないかと思ったりもするのだ。

 そしてラスト、風船がふっと飛んでいくシーンである。ここにこれまでAnlyの投影のような一人暮らしの女の子が抱えていた寂しさであるとか鬱屈とした思いこの風船の中に閉じ込めて、フワァっと解き放たれた瞬間それらの思いが一気に昇華される感覚を覚えるのだ。そしてそう思ったもう一つのキッカケはアニメ主題歌としてもお馴染みのバキバキのポジティブソングである『VOLTAGE』のMVのラストで、Anly自身が黒い風船を解き放つ場面ともどこかシンクロニシティを感じる。

🎈  バルーン飛ばし『Homesick』ver.

🎈  バルーン飛ばし『VOLTAGE』ver.

このシンクロは一体何を意味しているのだろうか?恐らくはこの「バルーン飛ばし」は今後4曲連続配信リリースされる全てのMVに統一されるオプションかもしれないのだが、あくまで『Homesick』は地元から離れて東京に暮らすAnlyのパーソナルな側面を歌詞として反映させている一方で、MVの中の他者にも同様の行為をさせることで単なる個別のパーソナル・ストーリーの域を離れて様々な人々の様々なケースへと普遍化させようとしたのではないだろうかと思ったりするのだ。だってこのMVを何度も目にする度にこれを聴く人によってこの「あなた」なる対象が親なのか恋人なのか、或いは生き別れた人なのかニュートラルに設定しているのではないかと個人的に思ったりする。

にしてもここで描かれている世界観のなんとリアルな事か。そしてこの日常の何気ない光景が「普遍の真理」に変わる時ポップミュージックの存在理由と果たすべき役割が内包するのではないだろうか

*1

 因みに本MVの中でこのAnly自身の投影ともいえるリアルな一人暮らし経験者を演じているのは「平田みやび」さんという今は舞台を中心に活躍している俳優である。

michabiyo.amebaownd.com

プロフィール見てたら映画出演歴に「テロルンとルンルン」がある事は個人的に良い意味で驚いた。

*2あのルンルンが通ってた学校の同級生の一人だったんだろうか。


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自分の好きなものの、こういうリンク見つけるの非常に楽しいものだが、あともう一つのリンクはこのリリックvideoを制作したのは私的ライブ絶対行くアーティストの一人である鈴木実貴子ズのMVを制作していることで有名な吉田ハレラマ氏が本MVを担当していることである。

この吉田氏のリリックと映像との融合っぷりに独特のセンスにも注目したい。『Homesick』では比較的リリックの出方は曲調に合わせて淡々としていると思うが、彼の真骨頂はリリックもまるで生き物であるかのように表現している点である

それを象徴しているのが以下は鈴木実貴子(ソロ)楽曲「裸を着ながら」とバンド編成曲「口内炎が治らない」を挙げてみよう。

*3

❶鈴木実貴子『裸を着ながら』


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口内炎が治らない


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両曲ともどもリリックがリリック以上の化け物と化し、Anly「Homesick」のリリックとは対照的に画面上で果たす役割が大きいことに気づく。

特に『裸を着ながら』において

拳銃で撃たれても気づきやしないぜ

の箇所で文字の塊が銃と化し実貴子氏を撃ち抜くシーンなど最初見た時からものすごいインパクトである。更に『口内炎が治らない』でも敢えて歌詞の一つ一つを辿って行きその文字が多くなったり小さくなったりする感じを見るにつけ言葉も生き物ではないかとの錯覚すら覚えるのだ

次節・次々説では「Homsick」的とどこか共時する楽曲を追ってみることでより日常の何気ない光景が「普遍の真理」に変わるポップソングのありかを追っていきたいと考えている。

 

2.「Homesick」と共時する楽曲3選

❶Taking My Time


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『Homesick』を聴いた時パッと浮かんだのが『Taking My Time』である。どこかTake one’s time(ゆっくり行こう)という意味のタイトルと「五月病のあなたに」というメッセージとがリンクする感覚もあるし、或いは海外のR&Bポップスのような雰囲気がありつつも日常にあるありふれた光景をポップスとして普遍化する試みを本曲にも感じたりする。

そういう意味でそれと近いイメージを想起したのがまだ音源化されていないものの『KOMOREBI』という楽曲であの曲も淡々としつつもどこか日常の何げない光景に小さな光を照らすような素朴な温かい仕上がりの曲になっている。

❷Rainbow

「雨の弓」と書きRainbowを名乗る本曲はポジティブなメッセージを郷愁的な編曲で彩られた Anly 要素100%のパワーソングである。FM802の企画でファンの声や拍手などを集積して作られたらしいが。、ここで注目すべき今回は沖縄風のアレンジとコーラスがインターナショナルポップスに拘泥しない、どこかAnlyならではのヒューマニズムを感じさせ、彼女ならではのオリジナリティある曲に仕上げているものだ

Rainbow

Rainbow

  • Anly
  • J-Pop
  • ¥255
  • provided courtesy of iTunes
そっちの天気はどうですか
蝉はもう鳴いてるのかな都会は日陰を歩いても
ちっとも涼しくならない

そしてこの「Homesick」にも地元沖縄から離れて住むことを示唆している歌詞がこちら。

繰り返しになるが、やはり沖縄の夏の到来の速さを蝉と言う夏の季語を用いている事と「都会は日陰を歩いてもちっとも涼しくならない」と言うフレーズは湿気の多い都会の夏を意味しているのと同時にどこか「当たり障りの良い表向きをしていても人の心は読めない」と言うようなメンタルな面も同時に表現している様にも思えるのだが。

❸VOLTAGE


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曲タイトルはズバリ『voltage』で、本単語自体にエレキギターを思わせる【電圧】の意もあれば、LIVEを思わせる【熱狂】の意も兼ね備えている。先のツアーで披露された新曲群が割と優しいトーンの曲ばかりだったから『FIRE』を思わせるこういう真っ向勝負感のあるニュアンスの曲は純粋に楽しみ。先に触れた通り『VOLTAGE』においても彼女自身が黒い風船を飛ばすシーンがあって、そう言う場面とのシンクロがのちに大きな意味を持つように思えるからである。2曲目の『大切なものはいつも歌の中にある』ほどコロナ禍以降、エンタメの価値観が軽視されてきた事に対してここまでハッキリと立ち向かって音楽家としてマニフェストした曲を他に知らない。そう、Anly というSSWはこの二年、配信だろうが有観客だろうがそういう稲妻のようなVOLTAGEを与えてくれたものだ。そんな頃中に生まれた象徴のような曲だ。*4

 

3.日常を普遍化するポップス

case1 天野花『渚』『おじいちゃんの歌』

4/23(土)@大阪 真心場
4/24(日)@大阪 心斎橋knave の
二日間は個人的に「天野花フェスティバル【花フェス】と呼称するほど天野花氏のライブを堪能できた土日の夕方だった。大阪ではミナホ、LIVE自体は一月の下北ワンマン以来という最高のインターバルでの天野花さん。本セクションではこの二日間のライブで披露されたAnly『Homesick』とあい通ずる日常を普遍化するポップスについて検証してみようと思う。

心斎橋・真心場 セットリスト(2022・4・23)

透明なブルー
カーテン(新曲)
ブーイング
freesia
かさぶた

 

大阪 心斎橋knave「start me up vol.2」(2022・4・24)


群青
さよならカラー(カバー)
ガールフレンド
アップルパイ
おじいちゃんの歌
カーテン(新曲)
スターライト

改めて思ったが彼女はまるで弓を射るかの様に全身全霊でギターを奏でる姿がとてもしなやかである。しなるようにギターを弾く人はよくよく考えればあまりいなくて、個人的には元スパイラルライフだとか元AIRなどで知られる車谷浩司(Laika Came Back)を彷彿とさせるものだ。で、この2日間で共通して演奏されたのが『渚』と言う曲で、本曲のモチーフは彼女のお母さんに捧げられた(と言っても健在なのだが)曲で、地元八丈島に帰った時の以下のエピソードを教えてくれた。

花「子供の時私をぎゅっと抱きしめてくれなかったよね。」

母「あの時は恥ずかしかったからね。」

花「(恥ずかしい、と言う理由ってのも天然のお母さんらしいな)」

と思ってた所、東京に飛行機で帰るって時に帰りの空港にてこの時のことをふと申し訳なく思ったのか、

母「おいで!!今抱きしめてあげる!!!」と母が高らかに宣言し

花「もう今はいいよwwwww」

と思ったという空港での母との爆笑MCから曲に入った瞬間にこのエピソードが感動エピソードに変わったという『渚』である。

渚

  • 天野花
  • J-Pop
  • ¥204
  • provided courtesy of iTunes

今回 天野花 さんのLIVEを2日連続観て気付いた点は特に彼女のピアノ曲におけるメロディーにはどこか「第三の旋律」が存在していてそれが曲世界を体感する上でえもいわれぬ余韻を与えてくれる事である。 だからこそパーソナルな主題のテーマでもそこに留まらずどこか普遍性を持って響いてくるのだろう。

ワンマン含め 天野花 氏のLIVE個人史上最高値を記録した曲が『おじいちゃんの歌』である。*5この日語られたエピソードは「祖母がいない時に私にいつも馴れ初めなど自慢したりするくせに、祖母がいる時はいつでもつっけんどんな態度をとってしまう、そんな不器用だけれど愛情表現がいつも下手で祖父に変わって歌います。というMCのあと放たれた問答無用の最近亡くなられた彼女の祖父へのレクイエムである。

すみっこに見つからないように 
やさしく置いておいたから
あなただけが僕を抱きしめて
「やっと見つけた」と笑えばいい
それだけでいい
それだけでいい

この普遍的に美しいメロディーに彩られライブ印象的なサビの部分の歌詞にふと気づくが、これは生前の話を再現したものではなくあくまで今、天国に行って愛すべき祖母を見守っているような慈愛に満ちた歌詞に注目したい。「自分の祖父を思って歌った曲」でありというパーソナルな視点を起点としつつもどこかファンタジックな側面のある歌である。
そして更にメロディーについて語ろう。本曲の歌詞のみに注目すると儚さ、温かさ、優しさと言う極めてヒューマニズムな印象を受けるだろうが【すみっこに】の辺りの壮大なまでの伸びやかさであったり【置いておいたから】のクールな着地の仕方であったりとか極めてドラマティックに響くのだ。ここに私が天野花の曲ポップミュージックとして定義できる所以である。

*6それにしても、だ。『群青』『スターライト』の光刺すようなポップネスも『Girlfriend』『おじいちゃんの歌』の崇高なメロディーも殊更スピリチュアルなレベルで心に響いた。天野花さんの「どうもすいませんね〜💦」かなんか言って自己肯定感低いのに『群青』『おじいちゃんの歌』『ある日のこと』みたいな有無を言わさぬ名曲さらっと歌う感じにかえってアーティストみを感じる。大袈裟ではなく彼女こそ過去のブログでも触れているようにこういう何気ない日常の風景を普遍的に美しいメロディーという壺に閉じ込める、正にPOPSの魔術師だと思う。この人も今後ともまだまだ目撃せねば。

*7*8

 

case2 タカハシリツ『たそがれメリーゴーランド』『宇宙飛行士になりたい』

最後にもう一人のSSWの本テーマにぴったりなSSWの楽曲を紹介したい。先ほど天野花さんも出演していた大阪 心斎橋knave「start me up vol.2」(2022・4・24)でも共演したタカハシリツさんの楽曲「たそがれメリーゴーランド」と「宇宙飛行士になりたい」で、この二曲はつくづく「日常のサウンドトラック」だと思う。特に『たそがれメリーゴーランド』は破格値に良くて

毎日は戻れない一分一秒と世界は色を変えてゆく
毎日は もう戻れない
だからこそ毎日が愛おしくて

我々は生きている限り色んな事にサヨナラしないといけない。それは人であったり物であったりそして今日の自分でさえも。そんな儚げで残酷な日常で笑っていける強さを本曲は与えくれるの曲だと思う。黄昏(twilight)歌った曲に名曲多い説が私の中であるがこれ本当だ。

 

❶『たそがれメリーゴーランド』 Short version


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❷タカハシリツ生誕ライブ


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『たそがれメリーゴーランド』は(39:51~)辺りで披露され、『宇宙飛行士になりたい』(17:01~)で演奏されているが、後者はデモ一聴で好きになった曲だが本曲は最近リリースされたC Dに収録されているバンドver.を聴いて更に好きになった曲でもある。デモver.の遥か何倍も徐々に曲のヴォルテージが増して最高潮に達し、クライマックスのギターソロとスキャットとのコラボはまるで宇宙空間 にいるZERO GRAVITYな1曲である。

 

 

4. The origin of Anly

最近特に思うのが今日、最近リリースされた色んな人達の新譜を聞いて思ったがやれ「リスナーの心に寄り添った。」だとか「応援ソング」だとか、変にリスナー目線に媚び売った曲が多すぎて呆れてくる。

そういうものてかそんな体たらくだから若者連中にギターソロ聴き飛ばされたりされるんじゃないのか。音楽がどんどん舐められていくのではなかろうか。

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あえて名は伏せるが、長年好きだった某バンドの新譜に関して、本来彼らは怒りや苦悩や狂気等の感情を音像化するのが最大の魅力だったのだが、人畜無害のPOPSアルバムに成り下がってしまった。時代による必然的な要請によるもので「正解」なのかもしれないが、魂は揺さぶられない。魂に訴えかける事を止めるのはバンドの死に等しいと思うのだが。

それと関連して唐突にAnlyに話を戻そう。今現在Anlyが続行中の一人アコースティックツアー、「いめんしょり」の英語表記は「Imensholy Tour 」になってての語尾が本来のri(リ)ではなく、ly(リィ)と綴られて何気にAnlyのlyとかけているのだが、これは別にそう単純な話ではないと思ったりする。

なぜなら「Anly」というアーティスト名を言語学的に分析すると「An+ly」となり 「あるもの」の意を現す不定冠詞「A(n)」とhopefully, usually等の副詞語尾につけ「〜のような」の意を示す副詞に付けられる「ly」との複合体なのだ。

だから強引に訳せば全体的な意味は「存在するもののようなもの」

正という意味になり、ルールペダルだろうが、バンドスタイルだろうが、「いめんしょり」ギターオンリー・スタイルだろうが、その演奏スタイルに拘泥しない彼女の音楽性に付合するものだ。

このAnlyというアーティストはある意味つかみどころがない人で、これだけ多くの字数を費やして語っても未だにはっきりとは定義できていないのが実情である。

もう極端な話それで良いのだと思う。真のポップス・シンガーとは得体の知れぬわけのわからない分かりやすくあってはならない。真のポップミュージックとはイントロやギターソロを聴き飛ばしてばり立つような代物ではなく「途轍もなく近くあり得ないほど遠い」そんな神秘に満ちた「魔法」ではないだろうか?この人といめんしょり大阪(@心斎橋janus)で披露された『Man in the Mirror』を超絶オリジナル曲として歌うアメリカのこの人を見ていていつも思う、そんなことを思いながら11725 字にものぼる本ブログを終えようと思う。


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*1:Anlyが本記事リリース後、国立競技場で行われたラグビーリーグワン決勝で「君が代」独唱したがこれは凄かったな。某イギリスバンドのドキュメンタリー映画の眉毛兄弟兄のセリフじゃないが、正に「This is history」な瞬間だった。

*2:テロルンとルンルン;個人情報ダダ漏れの田舎町。壊れた玩具を通じ、社会から閉ざすように生きてきた二人の男女のイノセントな出会い...上映時間50分ながら本作に詰め込まれた感情表現や表情のニュアンスが深過ぎて未だ残響音が鳴り止まない、僅か50分ほどの作品なんだけど大傑作だった。勿論ヒロインは小野莉奈で『アルプススタンドのはしの方』キッカケ観に行ったんだけど、もしあの作品を観なくてもやはり小野莉奈 は天才である、と言った事だろう。 予告編から「ルンルン(小野莉奈)がひたすら可哀想な作品」と誤解されるかもだが、実際はあどけなさと気の強さとの狭間に揺れる微妙な心情を保ちつつ演じ切ってて心地良いほどである。そしてそんな彼女を徐々に感情の変化を交えつつ受け入れようとするテロルン(岡山天音)も絶妙である。あと暴論承知で言うが、ツイートで本作は戦争映画だと言った記憶があるが、本作のラストシーンを見るにつけ細かい言及は避けるもののある戦争映画作品をモチーフにしたのかな、と思ったから。その舞台は過剰に怯え、俯き加減に問い詰めてくる大人やクラスメートらが支配する日常という名の戦場である。だからこそそんな破綻した世界に不可視であり続けた2人は魂で共鳴しようとしたのだ。いやほんと、あの日常の言葉が銃声の如く心の奥で鳴り響いている。

*3:吉田ハレラマ氏に関して

pfh-ent.net

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*4:彼女自身大絶賛していたコーダ・あいのうた』観て Anly が『VOLTAGE』のmvで手話を振り付けとして採用したかが分かった。 つまり音楽のもたらすメッセージが空気の振動を超えても伝わり得る事への可能性を信じる(かつて配信LIVEで観衆の顔が見える、とまで断言した)彼女ならではのロマンティシズムの具現化ではないかとも思ったりして

*5:未音源化なので正式タイトルかは不明

*6:さて地味に久々のknave着弾であり天野花さん2日目!15:00開場からのこの長丁場感なw

しかし昨日の『私のハートに火をつけた!』3:30に始まり、トリ天野花さん終演時で8:50という5時間の長丁場ながらドマン前中央の最強の席で体感時間2時間❗️中でもタカハシリツさんのパワフルなパフォーマンスと林愛果さんの『灰色ダックリング』がツボって音源買購入。お得感満載の神イベントだった。

*7:

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*8:天野花 のワンマンで先行発売されてた『渚』。

4曲と短いながらもバラエティーに富んだ良盤。中でも印象に残ったのが3曲目の『two-time』で、途中物凄いゴスペルっぽい展開になるし、歌詞も結構攻めてるし。
リスナー歴浅い私が言うのもなんなんですが(笑)何気に新境地じゃないのだろうか?

昭和の質感そのままに、令和風にアップデートされ帰ってきたウルトラマン〜「#シンウルトラマン」速報ネタバレレビュー

昭和の質感そのままに、令和風にアップデートされて "帰ってきた" ウルトラマン〜「#シンウルトラマン」速報レビュー



1.inspiration
冒頭10分ほどで、邦画界、こと日本アカデミー賞界隈やテレビでよく見る「いつメン」のキャスト陣がまるで洋画の吹替のような説明的かつ無機質なセリフ回しを連発してるのを見て察した。これまで私が身構えるように用意していた「人間ドラマにおけるリアリティ」だとか「この時代に敢えてこの昭和のヒーローをスクリーンに投下したことへの符号性」だの鎧兜はかなぐり捨てよう、と強く思った。なーんにも考えずに、もはやこれはそう言った種のものとは無縁のいわゆる何の澱みのない一大エンターテイメントとして観る方向へと気持ちをスッとシフトチェンジすると、もう俄然面白くなった。
現に二回目だし。あとちょっと思ったのは私は個人的にウルトラマンはおろか特撮というジャンルに何の思い入れもないので細かいディテールが再現されてとかは薄々そういうものかなってことに気づくぐらいなのでTwitter界隈の連中の中でも特に特撮マニアが割と躍起になってあのシーンをああいう風に再構築したのが冒涜だ何だ言ってるのが面白くて仕方なかった。まぁどうでも良いというか。むしろウルトラマンというコンテンツ自体が仮面ライダーだ、戦隊モノだの他のヒーローものよりも落ちぶれている印象すらあって、それを庵野監督によってうまいこと発掘されたみたいなイメージがあったから物凄区思い切ったリメイクを期待していたのだ。それより何より、私が子どもの頃から知っている、あの心躍らせて観た特撮ヒーローの感触そのままにあのウルトラマンが帰ってきた事を純粋に喜びたいと思った。

shin-ultraman.jp

まぁこの現象を昭和の質感そのままに、令和風にアップデートされて“帰ってきたウルトラマン“」とでも定義しようか。てか続編がもしあればタイトルは『帰ってきたシン・ウルトラマン』ってことになるのだろうか?


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2.constitution
本作は大きく分けて「3-part」に分類されると思う。
part1はそれこそTVシリーズで観たような敵と戦う往年のウルトラマンを忠実に再現した昭和からの古参のファンを喜ばせる為の忠実再現リメイクバージョン。

part2はメフィラス星人とのあのどこか海外のアメコミを彷彿とさせるやりとりだとか、昭和時代は怪獣ライバルの一部に過ぎなかったあの「ゼットン」の造形における新たな解釈に見られる令和以降を感じさせ、エヴァ以降の日本のアニメの動向を彷彿とさせるニューバージョン。

 そしてクライマックスからエンディングにかけてはpart1におけるノスタルジーバージョンと2に顕著な新たなイノベーションとを無血結合して総合化を測ることでオリジナリティを全面に打ち立てたpart3という合計三部構成。

 と、非常にザックリとしているが古参から新規に至るまでどこからでも入り込めるように作られた意図を凄く感じたのも事実。その点ではこないだのスパイダーマン新作が「ファンであればあるほど本作を享受できますよ」とでも言いたげな新規完全排除の巨大蛸壺(たこつぼ)構造だったのに対して、まあ本作における風通しの良さはなんと心地の良いものかと個人的に思う。
とはいえ、まぁ、今後も「シン・仮面ライダー」の公開を控えてるし、本作も既に続編の噂もちらほらあるしで、いずれマーベルのようなああいう【庵野特撮マルチバース構造】を打ち立てるつもりなのかもしれないけど、てか既にマルチバース化示唆するセリフもあったしな、という話は置いといて。
とにかく世間では「マニア受け」「往年ファン向け」などの意見がやたら強調されてるけれど私にはもっと現代風アレンジの側面をも色濃く感じられたし、それがとても好感触・好感度だった。

で、二回目を観た感想としては
❶演劇っぽい
②地方都市で避難するケースが多いのは予算のせいか
長澤まさみの飛ばされ方どうにかならんかったか
早見あかりの「こぉんかいはウルトラマンは来ないのかなぁ〜〜〜」の言い方ね
❺最後と最後から2番目の敵の造形の美しさは異常。ネタバレ案件なのでグッズ化できんのが悔やまれ。


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3.focalization
あと本作のMVPとして長澤まさみに関して触れねばならないと思う。

今まで邦画において、この女優・長澤まさみ によく付与されるような「仕事がデキるサバサバした女」と言う役柄に少なからず違和感があった。
だが、今回も悉くそう言う印象を持って正直不安というか食傷気味な感じを受ける恐れがあったがそのキャラが更に開き直ってエクストリーム化したのが好印象だった。誰かもTwitterで言ってたが「シン・ナガサワマサミ」という意見は言い得て妙でひどく納得してしまった。
 実際にウルトラマン級にどデカくなったし(笑)
本作は長澤が長澤を極めた作品としても語り継がれるかもしれない。

あと予防線張って言っておきますけど彼女の演技に関してセクハラ描写があると言う意見があるんだけれども全くそれはございません笑。そういう描写は皆無。
だからツイフェミ傾向の方も安心してご覧いただけます笑笑

いずれにせよ、個人的にはここ最近ずっと思索をめぐらし、伏線はどうだ、リアリティはどうだ、カタルシスはあるのかなどなどシリアス目な作品に触れることが多かったのでここまでスッキリとした気分でスクリーンにダイブできた作品に出会えて新鮮だったのも事実。
映画って本来こういうものであるべきなんだとか原点回帰できたような作品だった、と断言して良い。
繰り返しになるが頭すっからかんにしてあのイノセントな子供の頃に立ち返りながら、或いは子供の方は、その感性のままでままでたら良いのではないのかなと僭越ながら提案したいと思う

【付記】
てかなんで本作上映前、グッズ売り場で見ず知らずの親子(父親と小学生ぐらいの子供)わしに「カラータイマーのあるフィギュアの有無」を私に聞いたんだろう笑
もう「い、いえ(笑)ここのスタッフじゃありません。」言うのも面倒なんで、なりすまして「今回のはカラータイマーついてないんですよ👽」と自信満々に言っといたが(笑)

 

 

ゴミのような世の中に真っ向勝負を挑む、怒涛の映像アートと爆音の嵐から構成される混沌の109分、#大久保健也 監督『#CosmeticDNA』爆裂レビュー(ネタバレあり)

💊ウイルスや戦争や憎悪やハラスメントで蔓延するこのゴミのような世の中に真っ向から銃撃戦を挑むような怒涛の映像アートと爆音の嵐に一瞬たりとも目を逸らさず固唾を飲んで見守った109分の衝撃作『Cosmetic DNA』爆裂レビュー💣

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このゴミのような世の中に真っ向から立ち向かう、怒涛の映像アートと爆音の嵐からなる109分の衝撃作『#CosmeticDNA』爆裂レビュー

Table of Contents

0. Rock, Punks and Alternative is dead

1. Overview&Characters

2. Impressive Elements

 2-1 First impression

 2-2 Second impression

3. Which is the most Alternatve Beyond works?

4. Further Perspective

0.Rock, Punks and Alternative is dead

Don’t spend time beating on a wall,

hoping to transform it into a door. 

 

扉に変わるかも知れないという、勝手な希望にとらわれて、壁をたたき続けてはいけないわ。 

-Coco Chanel(ココ・シャネル 1883ー1971) 

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【既成概念を破壊する】この言葉を今まで何度聞いた言葉かわからない。それは音楽や映画、その他あらゆる媒体において言えることなんだろうけれど、いざ、そう言うレッテルの貼られたに対峙してみると博愛主義的なものだったりと従来のポップスフォーマットに乗っかったものだったり、案外そうでもなかったりするものだ。確かに「パンクだ」「オルタナティブだ」というパッケージに部分に関してはそうだろうども案外中身は愛だの友情だのゴミみたいな固定概念と薄っぺらいポピュラリティーに縛られた中身だったりする事も多い。そう考えたら今の音楽シーン「パンク志向」の音楽はあれど真の意味でのパンクやオルタナ音楽ってのは存在しないのかもしれないとすら思えてくるのだ。そして、その象徴としてまともなカルチャーにおける宣伝・批評媒体は雑誌でも批評家による著作でもなくSNSにしか残像していないんじゃないだろうかという漠然とした不安がある。そうなると、SNSでの言明の生ぬるさったらもはや批評の批の字もなくて、そこそこ過激だとされるロックやパンク・ミュージックを好んで聴いといて、いざ、タイムラインでは同調圧力押し付けても生ぬるい意見言い合っていいね押し合ってあんた一体何を学んでんだって話でもある。

そう考えたら今の音楽シーン「パンク志向」の音楽はあれど真の意味でのパンクやオルタナ音楽ってのはないかもしれない。ファッションとしてのオルタナティブでありパンクはやけに多いが...その意味合いで言うと、先日観たダイナソーJr./フリークシーン』は非常に興味深い作品だった。


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「伝説など不要だ」と言わんばかりに度重なる仲間割れや脱退からの交代や解散を経ての再結成、グランジシーンを体現して今も尚生き残りひたすら轟音をかき鳴らし続ける30年以上のバンド史の凄みを描いたドキュメンタリー映画。そこで判明した事実とはこのalternativeとは音楽ジャンルでもある現象でもなく彼ら自身の生き様そのものであったという衝撃的事実。本編にて「"グランジ"はニルヴァーナらをショボくした音ばかりになって93年には消えてしまっていた。」という言及があるがこれも妙に納得してしまった。

ここで改めてalternativeを定義したい。

Alternative(=オルタナティブ)の定義

そもそも既存のものに取ってかわる新しいもの。

1990年代のカウンターカルチャー音楽スタイルのこと。

オルト・カルチャーとも言う。

という事だから今現在オルタナティブという意味で残像しているのは真の意味でのオルタナではなく単にスタイルを模倣しただけのものだろう

 だからカート・コバーンのように、だらっとしたカーディガンの下に古着のネルシャツを羽織り、ボロボロのジーンズ着て長髪でギュインギュン鳴るギターをかき鳴らしても、別にそれはグランジでもオルタナでもなく単なる劣化コピーって事。かつて「ロックは死んだ」と言われて久しいが、「パンク」も「グランジ」も「オルタナ」もとっくに死んでいるのだろう。その先に何があるのかオルタナティブの更にその先(beyond)を模索する姿勢ができて初めて突破口が見いされるのだと思う。*1そして、ここ最近、そんなパンクかつオルタナティブな音楽がの不在を確信したもう一つの理由がここにある。

 そう、正に本来の意味でのそもそも「既存のものに取ってかわる」新しいオルト・カルチャーなるものが音楽部門ではなく映画部門において出現したのである。

そんなポピュラリティーに縛られた既存エンタメをみるも無惨に破壊するカウンターカルチャー的存在、それこそが今回の記事のテーマである大久保健也監督による『Cosmetic DNA』という作品である


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1. Overview&Characters

去年の秋頃だろうか、東京でかなりインディーズ映画ファンによって話題になっていて評判も高くて、本作はいち早く観たいと思っていたが満を辞しての大阪九条駅近くにあるシネ・ヌーヴォ初日(3/26)の上映である。
 と言うことで個人的に期待値がかなり上がってて、逆に妙に期待はずれになったりしないかと不安感すらあったのだが、もはやそんなハードルなど軽く超えるぐらいの物凄い作品だった。いや、そんなもんじゃない。本作はこれまでの人生で観た映画中で最高最強の衝撃作、というか潜在意識化か遺伝子レベルでこういう作品を希求していたのかもってくらいのインパクトである。

そんな衝撃作品、『Cosmetic DNA』のあらすじは以下のURLのホームページを参照にして引用する。

cosmeticdna.net

[Brief Story]

東条アヤカ(藤井愛稀)は、コスメ配信を主なきっかけとして配信視聴者である理系の大学院生のサトミ(仲野瑠花)と、やがて、彼氏と同棲中のアパレル店員のユミ(川崎瑠奈)と出会い、いつしか3人は仲良くなって、いろんなことを語り合うように。そんなある日、アヤカは自称・映画監督の柴島恵介(西面辰孝)からナンパされ、昏睡薬を飲まされ、ホテルに連れ込まれレイプされてしまう。そんなこともあってかなり凹んでいたアヤカは、更にその柴島はが今度はユミを襲おうとしていることを知る。「許せん!!!!!!」はらわた煮えくり返ったアヤカらはとうとう柴島を暗殺しようとする。

........と言うこのBrief Storyからも想像できるようにかなり過激な要素や描写もあったりもするのだが、そのストーリー展開の下地にあるのは女性達が古い価値観に囚われずに自らのアイデンティティを確立するようなあの香水等でお馴染みCoco Chanelの生き方的スタンスはあったりするのだ。本編でも冒頭でも東條アヤカ憧れの人物として示したような彼女の名言が引用されている。

が、本作はその種の映画にあるシリアスさに傾倒するのではなく、何より世に蔓延る全ての「ハラスメント」要素(「セクハラ」「パワハラ」「モラハラ」「スメハラ」など…)に対し中指を突きつけるが如くの怒りをベースに極彩色に塗りたくった所謂【映像のエレクトロパンク】を体感すると言ったエンタメ色の強い趣になっているのが大きな特徴である。

 やがて、この醜悪なパリピ男の権化のような柴島恵介はこの3人によって無事に(?)殺害されて、彼から流れ出るドロドロした真紅の血液が実はコスメとして引き立つ、みたいなよくわからん設定があったり、男性との生殖行為無しで、女性がこれを飲むだけ妊娠できるみたいな不思議なドラッグを理系の大学院生であるサトミが発明したり、ドラッグに耽る描写や、エキストラ大殺戮みたいな場面もあったりと、とにかく倫理観もかなぐり捨てて突っ走っていく感じはどこか奇しくも藤井愛稀氏も出演している阪元裕吾監督の『黄龍の村』や『最強殺し屋伝説国岡』にもあい通ずる側面があると思う。
 とは言え、ファーストインプレッションとしては、まるでストーリー展開とか伏線回収とかは置いといて、まるでミュージックビデオ(MV)でも観ているような映像のアート性を込みでガンガン突っ走っている感が強く、正に、ここ最近のウイルスや戦争や憎悪や嫉妬やマウント欲求やらハラスメントで蔓延するこのゴミのような世の中に真っ向から銃撃戦を挑むような怒涛の映像アートと爆音の嵐に一瞬たりとも目を逸らさず固唾を飲んで見守った109分、と言う印象もある。

 更に本作の主な登場人物を劇場パンフレットをもとに紹介する。

[Main Character]

💊東條アヤカ(藤井愛稀)...コスメを愛する美大生。コスメ配信を通じてサトミと出会う。

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💊西岡サトミ(仲野瑠花)....生殖工学を学ぶ大学院生、アヤカとは配信がきっかけで出会うf:id:NENOMETAL:20220410164501j:plain

💊松井ユミ(川崎瑠奈)....彼氏と同棲中のアパレル店員。二人には偶然公園で出会う。f:id:NENOMETAL:20220410164452j:plain

💊柴島恵介(西面辰孝).....(自称)映画監督、東條アヤカをレイプしようとする(してしまった?)とんでもない奴

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💊吉田大輔(吉岡諒).....柴島の古文的存在だったが彼の死後、徐々に頭角を表し始め映画監督にまで上り詰める

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2. Impressive Elements

2-1 First impression💊

で、先ほどMVに近いと言ったが…そこでふと思い出したのが主に90s以降から今もなお、イギリスのオルタナ・ミュージックシーンの核としてとして活動を続け、している全世界でトップに君臨し続けているパンクロックバンドPrimal Screamの存在である。*2
 彼らの曲の中でも『Country Girl』『Swastika Eyes』などの女性たち(一部微妙な人いるけど置いといてw)が主人公となって男社会をぶっ壊すみたいな展開の、あの辺りのなんでもやっちまえ感溢れるエレクトロ・パンク・ダンスミュージック*3のMVのような曲世界に何らかのカタルシスを見出したことのある人間にはどハマリだと思う。

てか私が正にそうだから(笑)ここにあげておこう。


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*4

更に、本編には絶えず出てくるのがクラブで踊るシーンで、EDM系統の音楽がガンガンかかり東条アヤカらがコスメをバキバキに決めて闊歩するシーンなども非常に印象的で、どこかしらあの伝説のEDM分野でのプロデューサー兼DJであるAviciiの『Wake Me Up』MVのストーリーも彷彿としたりして。*5


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まあ確かに『Wake Me Up』はracism(人種主義)の問題も多少は内包しているようで、ややシリアスではあるんだけど本MVでの登場人物である姉妹によるラスト付近の会話にて、

妹「Whre are we going? 

(私たちこれからどこいくの)」

姉「Somewhere we belong 

(本当の私たちのあるべき場所よ)」

と言う自らのアイデンティティを求めて行こうというメッセージは本作と確かに共有できる部分はあるかもしれない。にしても『Country Girl』にせよ『Wake Me Up』にせよ、本当の自らを取り戻す的な内容のMVってなぜカントリー調というかカントリーを音像として取り入れたものが多いんだろうな、やはり何処か「本当の自己=原点回帰=カントリーミュージックって図式が無意識の内にそれこそDNAレベルで流れてたりして。

この本編ではこの3人が「アイドルになる。」という設定もあって『絶滅危惧種ガール』のようなアイドル要素のある楽曲が大々的にフィーチャーされている点が違いと言えば違いなのだ。


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そして、本作鑑賞時は大久保監督と藤井さんらの出演者らの舞台挨拶付きだったのだが、製作費に関して厳しい側面もあったようでアイドルのMVにおける映画撮影シーンにエキストラを雇えなかったというの事情があったらしいが、このエキストラの代用がなんと段ボール製で、そこに書かれたオタク達のイラストレーションがアニメのような動きで本編では使用されていたのだが、怪我の功名ってかこれが逆にめちゃくちゃ良い効果をもたらしてたと思う。

このエキストラ・段ボールアニメは本物の人を用いるよりも、「キモオタ」「アイドルオタ」達の中に渦巻く混沌とし下心だとか承認欲求だとかそういう薄汚い感情の部分のみが露呈されたような醜悪さが引き立つ効果が内包され、むしろシニカルでアイロニックな意味合いや効果が高められているように感じた。*6
簡単に言えば段ボールアニメの方が世の中への怒りの部分が表現されているような気もする。
あと人の嘔吐物や血液はこれでもかってくらいドロドロにめっちゃ忠実に再現してたんだけど(笑)*7

 

2-2 Second impression

さて、本作は前記事の『アリスの住人』同様2回鑑賞している。2度目の舞台は京都みなみ会館である。初回はMVのような怒涛の展開に固唾を飲むように見入ってしまった109分だったが、今回はじっくりと登場人物の心象風景にも目が止まって感情移入している自分に気づく。初回のあのジェットコースター的展開に固唾を飲んで見守る感覚があったけれど、各々のシーンに心の視点がフォーカスされた、というか、各々の登場人物の心象風景に感情移入して鑑賞する事ができたように思う。

特にユミの「子供はプリプリして可愛い」とか絶望的な子供願望トークに失笑しつつ、実はその言葉の裏には子供が産めない体であるという告白をするのだが、そういう辛い過去とのギャップは非常に泣けたものだ。
 そして最後の最後のユミとアヤカが、
クライマックスシーンであれだけこだわり抜いていたメイクに関して、もうそれは不要だ、だなんだかんだ言って2人がキスするシーンがあるんだけど「もうこれは名画のクライマックスシーンか。」ってくらいめちゃくちゃ感動してしまった自分にも驚いた。因みに涙腺がないと自負してる程どんだけ映画やLIVEで感動しても泣く事がない私がクライマックスで涙が溢れた。悲しいとか嬉しいとか喜怒哀楽の感情以外の圧倒的に突き動かされた時の第五の感情による涙がそこにあった。

 あと個人的にこの作品に対して非常に腹括ってるなと思うのが飲み干した空き缶のぶちまけ方が潔くて良き。他の作品など観てもこういう時コンプライアンスを配慮してかどんなやさぐれた役柄でも割とお行儀よく缶をキッチリ床に置いたりゴミ箱に入れたりするのだがそういう余計なものを切り捨てたり、あと発明されたCosmetic DNAカプセルにちゃんと様々な表情の絵文字がある感じとか、会話の途中でもぶつ切りしたりする潔さも計算され尽くした感じがあって観てて非常に気持ち良いのだ。もうサイケな映像からオタ描写のキモさから飲み干した空き缶のぶちまけ方に至るまで悉くツボをつく。

 SNS上でも私が今まで観た二回とも性客の割合が多かったのを不思議がっているツイートが散見されたが、『CosmeticDNA』は別にフェミニズム映画ではなく3人が日々抱える社会構造や固定概念に対する怒りや苦悩は性別を超え共有できるものだからだ

 あと舞台挨拶の話に移行すると、藤井愛稀さんは京都みなみ会館シネ・ヌーヴォと2度舞台挨拶でも拝見してるがとにかく終電ギリギリで撮って大変だったとか、このような映像技術の魔法がかかるまでどういう作品になあるのか撮影中は大久保監督を半信半疑状態だったがいざ出来あがった作品を観て「監督、天才かも。」と思った事とか、とにかく予算の面で本作は苦労してただのの撮影裏話から『Cosmetic DNA』の放つコンセプトから映画への思いに至るまでとにかく色んな事を留まる事なく雄弁に話して下さっててとても面白かった。

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 彼女はお世辞抜きでめちゃくちゃ頭がキレる(←ブチ切れるの”怒る”の意じゃないよw、撮影中アヤカ的側面がなきしもあらずな事も言ってたけど)方だと思う。あとユミを演じた川崎瑠奈さんと柴島を演じた西面辰孝さんの本編と実際との印象の違うっぷりも凄まじかったな。川崎さんは本編における「ギャル」要素のあるというイメージの人なのかと思いきや、真逆で物凄いしっかりして上品なお姉さん然とした方だったし、西面さんもチャラ男要素はゼロでめちゃくちゃ物静かな爽やか青年って感じだった。これテンアンツ文脈で言うと古川藍さんとかタイプの役柄によって豹変するタイプの役者なのだろうか。その意味でもまたまた見返すと面白くて3回目がものすごく観たいんですけどね。*8
 では次節では『Cosmetic DNA』は他のオルタナティブな作品とどういう意味合いで比較できるのか検証してみよう。

 

3. Which is the most Alternatve works?
ここ最近本作「Cosmetic DNA」にせよ、のん監督Ribbonにせよ、阪元監督「ベイビーわるきゅーれ」にせよ、どこか現代社会や世相に対する怒りが基盤になって噴出している自分好みの所謂、オルタナティブな作品が増えてきていると思う。この節では(以後、オルタナ映画作品としてまとめて論じたい。)

Scene(1);ベイビーわるきゅーれ

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これ一年たった今では自分でも驚愕案件なんだけど本作品を最初に観た時酷評とまではいかなくとも大絶賛していなかったのだ。過去記事でこの要因に関しては色々記述しているんだけど最近改めて思うのが本作品が日本でようやく社会への怒りや苦悩をエンターテイメントと言う枠組みで落とし込んだ作品が「存在し得るのだ」という事実に自分自身が対応しきれなかったから
当初ちさととまひろがラストのカチコミに行くシーンでマシンガンと銃をそれぞれ構えるシーンに「何でカッコつけてんの?」っていう先入観が拭いきれなかったが2度、3度観て行くにつれ徐々にこのゴミのような社会に対する中指を突きつけるポーズであることに気づいた時のカタルシスは忘れもしまい。ま、一回見て気づいた人もいるみたいだけど(笑)

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Scene(2);Ribbon 

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コロナ禍以後に公開されるあらゆる映画を観てて違和感を拭えないのが「登場人物誰もマスクをしてないやんけ。これいつの話?」と言う歴然としたある種リアリティを突き詰めたテーマの映画にとっては残酷な疑問。その意味で主人公であるのん演じる浅川いつかはじめ彼女の家族全員マスク或いはコロナ対策重装備での外出シーンは逆に新鮮ですらあった。
だからこそクライマックスでの「ゴミじゃない」と言う台詞が日常と映画とがリンクして訴えかけてくるような感覚すらおぼえたものだ。
コロナ禍以降、登場人物がマスクをしていない全ての映画はファンタジーなのかもしれない。その意味で映画を単なるファンタジーに落とし込めなかった最初の作品として位置付けられるかもしれない。

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Scene(3);ポプラン

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それにしても離婚の末に別れた一人娘のあの「(この人に)会ったことあったっけ?」と言う台詞と何かに気づいたようなあの表情の意味深さに思わず溜息がでたし、最後ポプランを追いかけ回して父親の背中に激突して苦しむ息子に泣きながら笑った。様々な感情を呼び込む本作品は上田監督作史上最もディープな私小説だと思う。一夜にして男性器(便宜上ポプランと呼ぶ)を失って取り戻す旅に出ると言う一聴すると爆笑下ネタコメディーになりかねない設定の話にここまで感動している自分に気づいた。これは単にそう言う話ではなくわかりやすく言えば「本当の自分とは何か」を取り戻す為の旅とでも呼称しようか。上田慎一郎監督は公開直前イベントで本作品はいつものような群像劇スタイルではなく私小説であると断定したが各々のエピソードにどこか過去作の要素が示唆的に散りばめられていてそういう意味では彼の映画人としての半生を集大成化したものとしても捉えられるかもしれない。

https://filmarks.com/movies/92820?mark_id=126655552

filmarks.com

 これらの作品に潜む「オルタナティブ性」を探るべく以下の要素を定義しよう・

(A)リアリティ=設定というより細かい描写の現実性があるか
(B)アングスト=登場人物の怒り・苦悩が色濃く表現されているか
(C)カタルシス=クライマックス或いはラストシーンにおいて感じられるか
(D)メッセージ=作品全体を通じて何を伝えたいのかが表現されているか

と言う(A)~(D)の観点で分類したい。更にこれらの要素に対して

◎=大いに当てはまる
◯=適合
△=曖昧
×=不適合.  

と言う基準の比較検討してみようと思う。

(Results) Alternatve Works比較論

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 勿論このグラフで◯が多ければ良い作品という訳ではない。で、どの作品にも共通しているのが物語内部での(C)カタルシスを◯以上は全てクリアしている点である更に興味深いのが(A)リアリティ。『Ribbon』はコロナ禍に翻弄される美術系大学生が主人公という事もあってこのような現実性は重視されているが『Cosmetic DNA』『ベイビーわるきゅーれ』『ポプラン』に至っては血液をコスメにするわ殺人を生業だわ、男性器がどっかに飛んでいくわでリアリティはほぼ皆無である。(D)メッセージと(E)エモーションはどの作品にも満遍なく網羅されているし、作品の原動力となる(B)アングストは『ポプラン』を自身の集大成的スタンスに落とし込めたと言う理由でやや少ないのは上田監督のキャリアのなせる技だろうとも思う。

そしてどの作品にも「ファンタジー感」はほぼほぼ感じる事がなく、むしろ観終わった後どれも日常生活にも符合するある種のメッセージ性をリアリティを持って受けとる事ができるのも極めて興味深いものだ。

 

4. Further Perspective

 舞台挨拶でも大久保監督は「映画というのはありのままをストレートに映像みてそのまま解釈するのではなく、観た人がどう感じるのかが極めて大事なことだ。だから醜悪なシーンや不快なセリフなども本編で取り入れたりしたのは、なぜ不快に思ったのかガンガン悪口でも書いてほしい。」とう言う趣旨のことを仰ってたが(映画でも音楽でも演劇でもなんでも良いんだけど)、昨今の「褒め言葉ばっかり言い合ってSNSで徒党を組んで傷の舐め合いみたいないいね合戦をしがちなファンダムコミュニティが主流になっているエンタメ業界において稀に見る圧倒的発言である。
あと大久保監督は「映画とは観ているその時ではなく観終わった後、帰りの電車の中であれこれ何を思うのかが全て。」だとも仰ってたが本当に映画の本質を知ってる方なのだなと思う。


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上記に触れた作品においてもいえるように、彼ら若い映画監督がもっと主流になって今後の映画業界を支えてくれるような土壌を映画業界はガンガン与えてくれまいかと強く願う。
 ちょっと本論から外れるが、最近ちょくちょく出てくる某監督兼俳優やベテラン俳優らに関して某雑誌記事砲発端の芋づる式に出てくるハラスメント関連の醜聞ラッシュにはもううんざりしているのだ。とっととああ言う連中は消え去ってくれとすら思う。

代わりにこういう映画愛に溢れた完膚なきまでの若手達のエンタメ精神に満ち溢れたオルタナティブな姿勢を持ったインディーズ映画で映画館のタイムスケジュールで満たしてくれと切に願う。去年から今年の入って特に邦画部門において素晴らしい作品に出会す事が多いが、特に制作者サイドのメッセージが色濃く反映された作品が多いと思う。


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 これらのオルタナティブ作品はハッキリ言ってここ最近の日本映画界隈に関する醜聞とは無関係な所に存在している事が何よりの希望だと思う。その証拠に本作品の大久保監督は舞台挨拶にて「ここ最近の映画界隈のニュースに対するアンチテーゼ的なスタンスに位置付ける事が可能だと。」と言った趣旨の事を断定しているし、『ポプラン』の上田監督は以前より制作サイドにおける役者へのパワハラ等の防止のために一日の撮影時間をキッチリ「〜時まで」と固定するような労働基準を設けていたりする。

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加えてのん監督Ribbonに至っては本作品のテーマの根底が芸能界的システムの抑圧に対するレジスタンスとしても捉えられるからこそアングスト要素が感じられるであろうし、阪元監督も『ベイビーわるきゅーれ』にセクシャリティ要素を一切排除している事にも既存の映画界へのcriticism(批評主義)が根底にあるように思う。総じてこれらの作品群が示唆している事は「昭和的価値観をいまだに引きずったような【破天荒】だ【鬼才】と言うレッテルでラベル付された監督がいなくても傑作は成立し得る」と言う歴然とした事実である。もはや昭和的価値観を肯定するフェイズはハッキリ言って終わった、と断定して良いだろう。*9前記事の『猫は逃げた』のレビューでも書いたが、作り手が誠実に作ってるのかヨコシマな下心ありきで作ってるのかってのは透けて見えるものだ。コアな映画ファンになると予告編を見ただけでその空気感に触れることができその作品が当たりかハズレぐらいかは察知できるのだ。映画ファンを舐めてはいけない*10

さて、本記事冒頭で Coco Chanelの名言に触れているが、それもその筈。繰り返しになるが本作には主人公東條アヤカが彼女の生き方を大肯定しているシーンがあるから。そもそもChanelとはNO.5をはじめとするオリジナルのファッションブランドを通じ、シンプルかつ洗練された服飾品を身につけることで女性たちがもっと動きやすく、働きやすく、そして輝けるように貢献をもたらすように彼女自身も【既成概念を破壊した】のだ本作の基盤になっているのはいわばChanelもまた、ALTERNATIVEな存在なのだろう

 そんな彼女の残した、本記事の趣旨にふさわしい更にもう一つの名言をあげることで、この13628字に及ぶ本ブログ記事のレビューを締めくくろうと思う。


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The most courageous act is still to think for yourself.

Aloud.

 

今もなお、最も勇気のいる行動とは、自分の頭で考え続けること。

そしてそれを声に出すこと。 

-Coco Chanel(ココ・シャネル 1883ー1971)

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*11

 

 

 

 

*1:ここ最近、個人的に最もパンク志向のBeyondを感じたのは1月か2月のバーペガ配信でエアギターなのに流血した人と、楽器使わずに脚立と声だけでパフォーマンスした人ぐらいかもしれないな。

*2:プライマル・スクリームのオフィシャルサイトをあげておく。

www.sonymusic.co.jp

*3:書いててよくわからなくなってきたぞw、それだけ本作は説明的ではなく体感的効果の方が大きいと言うこと。

*4:本MVに関して以下の『GCM動画日記Case3』の記事でも触れている。この話も『女同士の話』ってのがテーマでもあるしどこか通ずる面があるのかも。

nenometal.hatenablog.com

*5:Avicciのオフィシャルサイトあげておく。

www.universal-music.co.jp

*6:オタ役の俳優さんも凄かったな。

*7:あとあとついでに気づいたんだけどあの3人がアイドルが歌う場面で下に歌詞が出てくるんだけどcollectionっていう綴りがcolectionとタイポになってたのは意図的だったのかな?っていう細かい疑問も備忘録としてここに記しておく。

*8:DVDが5月にリリースされるらしいけど、まあでも本作品はスクリーン体感がベストだと思う。購入前にまずスクリーン必須です!

Cosmetic DNA [DVD]

*9:

*10:ついつい横道剃れたついでにまた逸らすが、本レビューでは音楽作品との類似性に触れたんだけどなぜ、若いベテランか関わらず音楽家の作品にはそういう怒りや、アングスト(苦悩)のこもった作品って出てこないんだろうと言うのは兼ねてからの疑問でもある。それはいまだにマーベル、DCなどの海外のアメコミでもNirvanaの楽曲が重宝されるハリウッドでも同じ事である。アコースティックにも関わらず、壮絶極まりないシャウトを経ての4:50の表情にいつもハッとさせられる。まるで何かを予見してたかのような...

Nirvana -Where Did You Sleep Last Night (Live On MTV Unplugged Unedited)


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*11:名言の引用はこちらのサイトから

meigen-ijin.com

『#猫は逃げた』(#今泉力哉(監督) × #城定秀夫(脚本))に関する覚書🐈

『#猫は逃げた』(#今泉力哉(監督) × #城定秀夫(脚本))に関する覚書🐈

 

*1

 

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🐈💨主演はネコです。

いや、これは個人的に大ヒット!
少し前に公開された姉妹作『愛なのに』よりもうかなり個人的ドンピシャ。

lr15-movie.com

あちらの方は情報量が多すぎてなにぶん私の頭が悪くて、情報処理能力が追っ付かなかったものでその辺長々とFilmarksのレビューでも色々書き尽くしてるのでもちろんここでは割愛するが、こちらはスッキリとしてて統一感あって観やすくて凄く良かった。

私はシンプルな設定でスッキリとまとまった感じの映画作品が好きなんだろうな。
で、本作「猫」がタイトル通りテーマではあるんだけど、単に置物的スタンスの「象徴」としての猫ではなくて、実は裏タイトル『猫は全てを知っている』なんじゃないかってくらいカンタ(=パンフ見ればキャリアあるタレント猫らしい、道理で堂々としてると思ったわ...)がもうガッツリ演技してるのが驚き。
本作のストーリーは「離婚寸前の夫婦と各々の不倫相手」という計男女4人のあれこれの心象風景と心理描写をじっくりと描いた話でもあるんだけどこのストーリーに行方を先導切って引っ張ってるのは「逃げた猫=カンタ」であり、ガッツリ主演級の活躍をしているのだ。
もはやこの4人の人間達のあーでもこーでもないを熟知してて、敢えて姿をくらまして最後全てをまーるく収めるみたいなミッションを達成し、やり終えたら生命を全うする、みたいなものの見事なヒーロー級の活躍ぶり。私は猫を飼った経験も予定もないが、これ猫大好き人間だとめちゃくちゃ共感できるじゃないだろうか。


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🐈💨🐈💨いくつかのツボ
いや、人間達も負けてはいない。主演の山本奈衣瑠さん演じる亜子さんは岡藤真依系統の瑞々しいエロティックな描写を中心とした漫画家なんだけれど、台詞の中身が「あっ」とか「んっ」とかが大半なんだけど(察し)、最後の4人勢揃いの会話合戦にて一度ブチ切れたら「泥棒猫なのに猫泥棒」「売り言葉に買い言葉」などなどやたら名言や格言など連発の語彙力豊富ながツボだった。
ホントその他の3人のキャスト(敬称略、毎熊克哉、手島実優、井之脇海)各氏も演技が自然で心地よく見ていられた。
 このように、4人(+🐈)中心に繰り広げられるこのシンプルな物語は、まるで「演劇集団キャラメルボックス」のシンプルなセットで繰り広げられるアコースティックシアター等の演劇を観てるようなLIVE感があった。その意味で下北沢劇「小」劇場あたりで舞台化しても面白そうだと思った。
その際は勿論L/R15指定部分を取っ払っても十分面白さは伝わると思う。
個人的にはむしろいくつかの濡れ場はなくても十分成立するじゃないかと思ったぐらいだから。
また本作の主題歌はLIGHTERSという女性2ピースバンドの『don’t cry』なんだけど、これががまた珠玉曲なのだ。ちょっと昔懐かしい初期プライマル・スクリームとか日本だとVenus Peter辺りを少しオルタナっぽく仕上げた感じの素晴らしい英詞の曲なのだが、以下、部分的に歌詞を抜粋してみる。


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When I was once all alone.

You gave me a house where I could sleep every day.
Sometimes you guys would talk with angry faces
I don't care if you two are separated. 
Just remember me just in a while. 
And don't lie or hide in a moderation

この辺りの歌詞などじっくり見てみれば逃げてしまう主人公猫ことカンタの心象風景になっていることがわかる(意図的かどうか知らんが本曲のアートワークは犬の写真が使用されている。)
その意味で本作を鑑賞後、本曲の歌詞全体が全てカンタ自身の「情けなくも愛すべき4人の人間様達」へのメッセージに聞こえて仕方ないのだ。
ここまで私が主題歌に言及するのは、内容はいいんだけど主題歌がどうも取ってつけた感のある映画作品に出くわすことも多いからだ。その意味でこの作り手のきめの細かさはまるで本編に出てくるじっくり時間かけてつけた漬物のようにとても丁寧な作りにはとても好感が持てる。


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🐈💨🐈💨 🐈💨雑感
 ところで話はガラッと変わるが、ここ最近、映画関係でのネガティブな話題が頻発しててうんざりしててインディーズ映画というもの自体にどうにも懐疑的にもなりかねなかったのだ。
 だがそんな人たちにこそ本作を是非鑑賞してもらいたく思う。

この作品はそんな醜聞を見事にひっくり返してくれる真心がこもっていると思う。本作に垣間見える制作者サイドによる実直なまでの丁寧な作りと映画愛に満ちたアティテュードは信頼に値するものであると断言して良い。
こちらだってダテにこれまで色々な映画を鑑賞してきたわけではない。
「正しく」誠実に作られた作品とそうではない物との区分は、この全てを知っている猫のように、すぐに見透かされるものだと思うから。

*1:本エッセイはFilmarksの本作に関する該当記事割とまんま書き起こしたものである。

filmarks.com

映画『#アリスの住人』(澤 佳一郎監督)爆裂レビュー〜物語を終わらせるその強さとは〜(ネタバレあり)

🃏物語とは終わるものではなく、自らの手で終わらせる強さを持つ事ではないか?本作はそんなことをふと思いながら鑑賞した現代版「不思議の国のアリス」なのかもしれない。🐈‍⬛

映画『アリスの住人』(澤 佳一郎監督)爆裂レビュー〜その物語を終わらせるその強さとは〜

Table of contents

1. Overview&Characters

2. Impressive Elements

2-1 First impression

2-2 Some Synchronisites 

2-2 Second impression

3. Final Remarks

*1


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www.youtube.com


www.youtube.com

1. Overview&Characters

[Brief Story]

本作品のあらすじは以下のURLのホームページを参照にして引用する。

www.reclusivefactory.com

幼少期に父から性的虐待を受けたつぐみは、その事実を母に告げられなかった後悔とトラウマに今も囚われている。

ファミリーホームで過ごしながら、SNSで男たちと知り合っては手淫でお小遣いを稼ぐ毎日。気付けばもうすぐファミリーホームを出て、社会に出ないといけない年齢。今ある日常をどのように変えていけばいいか…。

そんなある日、賢治という青年に出会う。徐々に惹かれていくつぐみは自分のこれからを見つめ始めるが、ある出来事をきっかけに大量の薬を口にすることになる—

更に本作の主な登場人物を劇場パンフレットをもとに紹介する。

[Main Character]

🃏港つぐみ(樫本琳花)...幼少期、父親から性的虐待を受けトラウマを抱えたまま生きている

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♡前野賢治(淡梨)....会社倒産後現在カラオケ店勤務。倒れていたつぐみを偶然助け知り合う。*2

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♤白戸多恵(伴優香)...ファミリーホームの先輩。入院したDVの父を許すべきか迷っている。

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♢国枝莉子(天秦音).....ネグレクトの母から逃れるためファミリーホームに。腕には傷跡が...

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♧加茂朋恵(しゅはまはるみ).....元弁護士である勝之、池口省吾(補助員)含めファミリーホームメンバーを温かくも時に厳しく見守る里親。

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2. Impressive Elements

2-1 First impression

一部、先ほどのあらすじの繰り返しになるが、主人公、港つぐみ(樫本琳花)は幼少時代に父親から性的虐待を受け続け、その事実を実の母親にも言えず18歳になる今がいままでずっと心の奥底にトラウマ級の傷跡を抱えて生きてきた。
 そんな苦悩を発端とするトラウマから目を逸らすかのように、つぐみはSNSなどで出会った愛と欲望に飢えた男達とカラオケボックス内で援助交際に走り、そこで汚れたお金を手に入れて生きていく毎日。
彼女はそんな地獄のような心と身体を傷つける日々を「終わることのない物語」と称している。こ現に、劇場パンフレットの表紙のめくってすぐ、本編でも象徴的なセリフとなっている「この物語はいつ終わってくれるのか、少女はいつも考えていました」というセンテンスが掲載されている。そしてそれを見ると鑑賞した者なら誰しもあの永遠のように続くカウントダウンが聞こえてくるのだ「1、2、3、4、.....」。

そしてその時に限ってつぐみの中で何かが不協和音と歪んだ視界がダブルパンチで襲ってきてうずくまってしまう。そして浮かんでくるのはまるで果汁をたっぷり含んだ甘い桃をかぶりつくかのように幼いつぐみの体に覆いかぶさってきたあの日の父親の欲望に満ち足りた顔までもがフラッシュバックするのだ。そんな地獄のような『Never Ending Story(はてしない物語)』。そんな地獄のような物語は誰にも打ち明けることなどできるわけもなかろう。彼女は偶然自分を助けてくれた賢治に自分のトラウマ説明する際「不思議の国のアリス症候群」という言葉を用いて説明した。それにしてもこの物語は果たして終わりを告げるのだろうか?*3
 そして、彼女が唯一の心の拠り所にしている場所は、母のいる家庭ではなく「ファミリーホーム」である。
そのファミリーホームとは、このヘヴィーな状況下で育ってきたつぐみ以外にも、アル中の父からのDVから逃れてるようにファミリーホームに飛び込んできた白戸多恵だとか、母親から育児放棄同然の扱いを受け、その愛に飢えた寂しさを刻印するかのように腕にリストカットし続ける国枝莉子などなど、彼女らの唯一の居場所が養育環境にない子供達の面倒を期限付きで見るホームステイ形式の家庭施設ーそれが本作の主な舞台がファミリーホームである。*4 …とここまで書けば誰もが幼児虐待をテーマにして家族の在り方に一つの問題提起をした上西雄大監督『ひとくず』のようなDVによる子供の胸や腕に残る傷跡などのリアルな描写やそこで起こった事実を色濃く写像することによって「本当の家族が一番酷いことをするんだよ」というつぐみの独白をなぞるように「本当の人の繋がりとは何か」もっといえば「血の繋がりだけが果たして家族と言えるのだろうか。」というテーマを逆説的に浮き彫りにするようなシリアスな物語展開を想像するかもしれないが、本作に関しては不思議とそういう印象はなく鑑賞後にはむしろあのラストシーンのような、さっぱりとした海風を浴びて花火をかざすような爽やかな印象すら受けるのが特徴だ。ついでにと言っては何だが、同じ児童虐待というテーマを扱っている意味で相通ずる上西監督『ひとくず』の過去のレビューは以下の通り。

nenometal.hatenablog.com

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 正確には本作でもそうしたリストカットの描写や性的なシーンなどの現実的かつ生々しい描写がないわけではないけれど、そこは極めて示唆的かつ最小限度に抑えてあるし、むしろ、ここのファミリーホームを仕切っている加茂勝之・朋恵夫婦(みやたに・しゅはまはるみ)、ファミリーホームの補助員・池口省吾(久場寿幸)を含め、実質的に血が繋がっていないにも関わらず家族の絆を感じさせる、心にじわじわと温かな余韻が残る印象すらあるのが大きな特徴でもある。*5というのも、つぐみらの世話をするこの加茂夫婦の里母役である加茂朋恵の視点がとても大きいと思う。印象的なシーンを挙げるとすれば、あのつぐみが賢治と一夜を共にして朝帰りして帰ってくるわけだけど「なんで(ファミリーホームに)帰って来ないって報告してくれなかったの?」みたいに叱ったりする一方で、「もしかして彼氏と一緒にいたの?」と言って冷やかすみたいなこの絶妙なバランスね。彼女らに干渉をしすぎず、勿論突き放しもしすぎない、このニュートラルな関係が心地良くてそれが本作をそれほど問題の軸をシリアスにしすぎない一因として貢献しているようにも思う。

 

2-2 Some Synchronisites

❶主題歌『群集の中の猫』

本節では少し本編から離れて劇中鳴っている音楽であるとか、「アリス」というタイトルからも『不思議の国のアリス』などに触れ、より本作の本質を探っていきたいと考えている。まずは主題歌について。そしてそうした前述したファミリーホームの里親達の干渉をしすぎず、勿論突き放しもしすぎない、このニュートラル温かな視線は主題歌『群集の中の猫』(歌;レイラーニ(中嶋晃子) 、尾崎豊のカバー)の歌詞さながら反映しているようだ。


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以下、一部引用する事でそれを検証しよう。

群集に紛れ込んだ子猫の様に 
傷ついて路頭 さまよい続けているなら 
ねえここへおいでよ 笑顔を僕が守ってあげるから 
突然振り出した雨から 君をつつむ時 
僕のせいで君が泣くこともあるだろう 

僕の胸で泣いてよ 
何もかも わかちあって行きたいから 

やさしく肩を 抱き寄せよう 
雨に街が輝いて見えるまで 
やさしく肩を 抱き寄せよう      

 

from『群衆の中の猫』(尾崎豊)

*6

本歌詞の中での【雨に濡れた群集に紛れ込んだ子猫】とは紛れもなくファミリーホームにいるつぐみ達のことを示唆しているようだ。
そして【君のために泣くこともあって、君が泣き止むまでに肩を抱き寄せてくれる】存在こそがここの加茂夫婦であるように思えてならない。

そして僕の胸で泣いてよ  何もかも わかちあって行きたいから】のくだりを見て彷彿とするのが唯一とでも言っていいほどファミリーホーム以外での自分の存在を見てくれる信頼できる存在である賢治に例の援助交際の件がバレてしまい、どうしようも無くなって安定剤と称する錠剤を一気に飲みまくってそれを引き止める朋恵の姿である。

このように枚挙のいとまがないほど、他にも探したら出てくるであろう、『アリスの住人』と『群衆の中の』とのまるで書き下ろしたのではないかと思うぐらいリンクしている。

しかし、本曲は、この物語の為に書き下ろした訳ではなく、伝説の日本のロックシンガー尾崎豊による『回帰線』(1985)というオリジナル・アルバムの収録曲のカバー。こうしてだから37年以上もの時を越えて映画本編とシンクロしているという偶然に驚きを隠せない。*7

❷「アリス」とのシンクロニシティ

そうそう「シンクロ」と言えばそのタイトルでタイトルに「アリス」と付したあのLewis Carrollルイス・キャロル)のあの有名すぎる絵本作品『不思議の国のアリス』とのシンクロニシティも忘れてはならない。以下のサイトからあらすじを引用させていただく。

honcierge.jp

ある日、物語の主人公であるアリスは、お姉さんと一緒に本を読んでいました。本を読みながらぼーっとしていると、服を着た白いウサギが慌ただしい様子で走っていく様子を目にします。

そのウサギは、「もう間に合わない!」と人の言葉を喋りながら走っていくのです。そんなウサギに興味を覚えたアリスは、そのウサギを追って穴の中へと入っていきます。

穴の中に入ると、そこは広間になっていました。彼女はウサギを見失ってしまいます。怖くなったアリスが泣いていると、涙が池となって彼女はその池に落ちてしまいました。

池に落ちたアリスは、ドードーらと出会い、コーカスレースという競技に出場することになります。それからまた白いウサギに出会って、大きくなったり小さくなったりします。

アリスは、森にいたイモムシに教えてもらい、キノコを齧ることで、自分の身体の大きさをちょうどよいサイズにしていました。

アリスは、その後もチャシャ猫と出会ったり、帽子屋と三日月ウサギと一緒にお茶会に参加するなどします。

物語の最後に、アリスは、「アリス起きなさい」という声で目を覚まします。目を覚ますと、アリスははじめの木の下にいて、お姉さんも一緒でした。アリスはお姉さんの膝の上で寝ていただけだったのです。

今までみていた夢が忘れられなかったアリスは、お姉さんに覚えている限りの物語を精一杯伝えるのです。 

あらすじはざっとこういう感じだけど、この『不思議の国のアリス』では、(因みに本編でも『不思議の国のアリス症候群』としての言葉でも出てくるように)アリスの体が大きくなったり小さくなったりなどなど様々な不思議な体験をして、最終的にその世界から目覚める、といういわゆる夢オチの物語だけれど、ここでこのアリスとの共通点を2点論じたいと思う。

 

 ❶まず共通点としては大きくなったり小さくなったりするのは前述した通り例の「1、2、3、4、.....」というてつぐみの中で何かが不協和音と歪んだ視界がダブルパンチで襲ってきてうずくまってしまうあのトラウマ物語によって大人になった自己の体に幼い日の自分が蘇ってきてその重量に耐えきれなくなってうずくまってしまうあの感じが正にアリスとリンクしているように思う。

② 次に、ここで重要なのはアリスの「お姉さん」が、アリスが夢の中の世界から現実の世界へと連れ戻してくれる役割を担っている点だが、その姉的存在について検証したい。
 正にこの物語を本作に準えるならば「アリス=つぐみ」とするならば彼女が地獄のような心と身体を傷つける地獄のような日々は「終わることのない物語」であると同時にアリス同様「迷い込んだNightmare(悪夢)」であり、そんな悪夢から目覚めさせてくれた存在とは、あの加茂夫婦ではなく、ましてや、ある日偶然出くわし後に恋人関係にまで発展する前野賢治でもなく、ズバリ同じファミリーホームの2つ上の卒業生である多恵ではないかと思うのだ。というのもアル中で入院したあのかつての父に対して着替えを持っていく事を実行した多恵の姿を見た事によって彼女の中で何かが変わったのだと思う。正にあのがんじがらめに支配し続けられた少女から大人になるための卒業の儀式として、「海へ行く」事をしっかりと決意をして、年下の妹のような国枝莉子の自傷行為を目にして「私たち、こんなことしちゃダメだよ。」と強く諭す点であり、最後の最後に電話をして実の母にあの日のことを打ち明ける決意をすルべく一歩踏み出すようになるのだ。不思議の国のアリス』も『アリスの住人』もいずれも少女から大人への成長の物語であるという意味で共通しているが、その終わりなき物語に終止符を打つのは「勝手に終わってくれる」ような「夢オチ」ではなく自らの手で物語を終わらせ強さを持つようになる事なのかもしれない。

 

2-2 Second impression

そして本作は3月27日に一度鑑賞してFilmarksにレビューを書いて、本レビューより半分以下の4000字でアップしたのだが(それでも十分多いんだけど)何か色々と個人的に確認したい点があってもう一度見て観ようという気持ちから3/31(木)にもう一度観にいこうとシアターセブンに駆け込んだものだ。1回目よりも更に、つぐみ、多恵らが各々の日常で感じる心の痛みを一層ヒリヒリ感じたと同時に、彼女らへのファミリーホームの人達の温かな視線に深い絆を感じ尚更感動した2回目だった。

このように、正に「血の繋がりだけが家族ではない」というテーマの作品は映画のみならず演劇でもよく目にし、素晴らしいものは非常に多いと思うが、あの海辺で皆んな笑顔で花火をかざすシーンは誰もが血がつながっていないんだけど、誰もがもはや家族だったという結論に至ったものだ。

....と書いて実は思い当たる節がある。

数週間前に寺田町駅付近の「表現者工房」という演劇スペースで観たタテヨコ企画当劇団の「家族のカタチ」もそんな感じだった。あの物語もファミリーホームに類する里親施設が舞台となっていて、実の親ではない里親に、一人の女性が10年以上ぶりに家族の絆を確かめに帰ってくるというストーリーで、そこでも最後は血の繋がりのない十人ほどの施設登場人物が食卓を囲って「いただきま〜す!!!」言って暗転して終わるのだが正に同じ感慨を抱いたものだ。*8そう、この食卓エンディングでおそらく劇団が伝えたかったことは「もはや、血のつながりだけが家族ではない。こうして皆で食卓を囲んで楽しげに食事をすることに本当の家族的なものの原型、つまり家族のカタチなのだ」ということではないかと。そして本作『アリスの住人』も同じ事で。同じように海辺で花火をしながら笑い合っているファミリーホームの人たちもあの食卓で楽しい食事をする人たちも、そしてそれを観て心にぽっと灯火がこもったように微笑ましく観ているもっといえば客席にいる我々さえも、もはや家族に混ぜてもらったような気がしたものだ。

 話を『アリスの住人』に戻そう。この2回目の上映は舞台挨拶があって澤監督のみならず、今回多恵という重要な役割を演じた伴優香さん(登壇)とその父親を演じられた萩原正道さん(リモート)らによるとトークが繰り広げられた。

そこで、個人的に今回衝撃だったのはファミリーホーム中、つぐみに一歩踏み出す打つ勇気を与えてくれた多恵役の伴優香さんにおける父親とのエピソードが完全に彼女の実体験だった点である。その話を聞いてあの病室での父親に着替えを届けて、自分の思いを全てぶちまけて

父親「また.....来てくれるか?」と言われて

多恵「考えとく...」

と言って去って行くシーンにおけるある種の緊張感だとかその背後にある物凄いコンテクストを半端なく感じたのはそのせいだったのかと深く納得したものだ。

更にあの海辺のシーンでハイボール缶を飲むシーンも実際に彼女が亡くなった父を偲んで行った事だったというのも極めて興味深かった。
『アリスの住人』にはその他役者達のリアリティもギュッと凝縮されていて、多恵の父親役を演じられた萩原正道さんが舞台拶後に教えて下さった2つのエピソードがこちらである。*9

なるほど、と、この二つのツイートを読んでものすごく腑に落ちた気がした。

まず、そのしゅはまさんの絶妙な母性に関して最初のツイートでは、彼女らに干渉をしすぎず、勿論突き放しもしすぎない、このニュートラルな関係性を持った理想の里親像が見出せた理由があった訳がものすごく分かった。

 次の10歳の莉子役を演じた天白さん関連のツイートでは最後の最後のシーンで自転車に乗ってピースしている時の笑顔が物凄い自然でキラキラしてるなと思った理由をはっきりと享受できたと思う。

 

3. Final Remarks
今にして思えば、つぐみにとっては猫、賢治にとっては女の子に見えるという座敷童子(合田純奈)の存在がいかに物語全般のキーとなるほどに重要であるかという点である。

実は一度観た時は気づかなかった点で、2回目を観た後で薄々気づき、澤監督とお話しさせていただく中ではっきりとわかった点がある。

 その証拠に多恵やファミリーホームの加茂夫婦ににとっては座敷童子は不可視ではないか。それは、どこか本当の自分の中の終わらない物語に決着がつけられない人間にだけ見える、自己アイデンティティを見失いかけた漠然とした分離した魂の具現化したものの象徴それが座敷童子ではないかと。

 ここからはあくまで予測であるが、なんとなく最初にうずくまっていたつぐみと賢治が出会ったのは運命的なものであると同時にすぐに打ち解けあったのは「似たもの同士」とお互いの共時性を見出したからだろう。

そして心が通じ合った二人は自然に交際へと発展し、性的行為に及んでもつぐみの頭の中でカウントダウンと不協和音が鳴らなかったことがその証拠である。そして賢治は賢治で、これまで何となく自分の家族の在り方や境遇を感じながらも自己アイデンティティを確立できない状態で生きてきたと。そんな時につぐみの援助交際行為を見るにつけ自分の意思を思いっきり吐き出してその後悩みに悩んでつぐみを受容しようと決意できた事により、彼の中の「終わりなきカウントダウンの物語」を終わらせられたのだ。

 要するに、賢治も広義の意味で「不思議の国のアリス症候群」だったのではないかと。

そんな妄想ついでに最後にこうして『アリスの住人 』2回鑑賞して一日経過後、まず本パンフレットの表紙をしみじみと眺める事でそれを検証してみよう。

本表紙は別に内容云々を示唆してる訳でもましてやネタバレでもなく個人の解釈によって色んな解釈が成り立つアートワークだと思うが、私はこの表紙に関して以下のように定義した。

この写真左上の表紙の写真はきっと海へ行って花火をして、つぐみは母に全部を打ち明けたエンドロール後の光景である。

あれから悩み、つぐみの全てを理解して受容した賢治はあのファミリーホームに遊びにいくことを決意する。

そこで皆んなが冷やかし半分、笑顔で出迎えてくれるが、もはや彼の視界には女の子としての座敷童子の姿は見えない。

そしてつぐみも同様に猫の姿は見えない。

あと右上のオリジナルクアファイルをこのパンフエットに重ねるとそれが如実になってつぐみの頭の中に賢治、加茂勝之・朋恵夫婦、白戸多恵、国枝莉子、池口省吾は存在するが、座敷童の存在はいなくて、「住人」という文字の位置の裏に隠れているのだ。

はたまた、紛れもなくアリスの住人とは座敷童子の事かもしれない。

「この物語はいつ終わってくれるのか、少女はいつも考えていました」

「ただ飲み込まれないようにそうやって生きて」

表裏表紙パンフレット両サイドにあるこの言葉が座敷童と存在と共にじわじわとゆっくりと消えていく、本当の意味でのエンドロールがあるような気がする。

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【付記1】澤監督はじめ、久場寿幸氏、曽我真臣氏(助監督)、合田純奈氏らのインターネット動画番組『シネマ・チラリズム』の中での興味深いトークはこちら。


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【付記2】あ、あとこれめちゃくちゃ余談で自分だけしか思ってないことだと思うんだけど、これまで何度も観た上西監督「西成ゴローの四億円」で闇金姉妹が口にベタベタつけて食ってたインパクトが頭残ってて本作でもファミリーホームで皆が食べてたあの麺「ジャージャー麺」かと思ったけど、澤 佳一郎監督に直接お聞きしたら実は「やきそば」らしいというオチを込めてこの10854字にも及んだ本レビューに終止符を打ちたいと思う。*10

*1:本記事はFilmarksのレビューに大幅に加筆・修正を加えたものである。

filmarks.com

*2:あの上田慎一郎監督『スペシャルアクターズ』を鑑賞した者ならムスビルという怪しさ極まりないあの新興宗教(というより詐欺団体)の教祖様をほぼ台詞なく演じ切ったあの淡梨氏が今回普通の好青年を演じているのもかなり驚愕でもあっただろう、いやこれぐらいインパクト強かったからねあの大和田多磨瑠教祖は。スペシャルアクターズに関する過去記事。てか「淡梨さんが出ている」以外ほぼ共通点ないのに載せる筆者のセコさなw

nenometal.hatenablog.com

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*3:不思議の国のアリス症候群』についてはこちら。

ja.wikipedia.org

*4:「ファミリーホーム」について詳細に解説したこちらを引用して紹介する。

one-love.jp

*5:最近時系列順に『GCM動画日記』(2020)『ひとくず』(2021)『家族のカタチ』(2022)『アリスの住人』(2022)と「血の繋がりだけが家族じゃない」と言う趣旨のエンタメ作品を立て続けに観る事が多い。そしてどれも遺伝子レベルの繋がりはないんだけど逆説的にピュアな家族のあり方を提示してるのが特徴である。

*6:尾崎豊オリジナルver.の「群衆の中の猫」オリジナルであるこちらのバージョンはめっちゃエモーショナルでレイラーニさんの穏やかなテンポのカバーヴァージョンとは違う。こちらがもし主題歌として使われたら印象もガラッと変わっただろうな。


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*7:

*8:でこの女性が『GCM動画日記』江頭環こと福永理未さん出演という...色々リンクするね〜。

*9:こちら、ブログアップの後日談だけど、この記事の件ツイートしたら萩原正道さんまたまた返信してエピソード下さったよ、ほんと良い方ね。大阪シアターセブンにて4月16日(土)から公開される出演作『スペースクライングフリーセックス』必ず観ます〜!

*10:『西成ゴローの四億円』に関する過去記事。てか「焼きそばがジャジャー麺に見えた」以外ほぼ共通点ないのに載せる筆者のセコさその2w

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全世界のエンタメよ、Re-born(再生)せよ~創作あーちすと・ #のん (能年玲奈) 監督『#Ribbon』爆裂レビュー(ネタバレ有り) 

 

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全世界のエンタメよ、Re-born(再生)せよ~のん監督『Ribbon』爆裂レビュー』*1

Table of Contents

1.はじめに
2. Overview&Comment

3.『Ribbon』を紐解く傑作5選

Scene(1)『花とアリス』(2004)岩井俊二監督

Scene(2);『のぼる小寺さん』(2020)古厩智之監督

Scene(3)『サマーフィルムにのって』(2021)松本壮史監督

Scene(4)『アルプススタンドのはしの方』(2020)城定秀夫監督

Scene(5)『8日で死んだ怪獣の12日の物語』(2020)岩井俊二監督

4.オリジナル新作の果たすべきロール(役割)とは?

 

1.はじめに
以前のS-igen企画『悲劇のアルレッキーノ』の記事冒頭部分でも書いた事があるが、ここ最近というか、ずっと前からだろうが、エンタメ界隈に関する会話で「私は音楽サイドに詳しい。」「私は舞台よりも映画が好き。」とか「私は演劇サイドの人間で、あとはアニメが好きかな。」などと言ういわゆるエンタメジャンル分けみたいな会話ややり取りが日常で繰り広げられたりする。でも、ハッキリ言ってそんなボーダーライン分けに価値などないと思っている。*2

 はっきり言ってそんな蛸壺(たこつぼ)の中で互いのマニア度をテイスティングし合ったりする事自体がもうエンタメ界隈が崩壊レベルでヤバいんじゃないかと。だって人の心臓部のコアのど真ん中をブチ抜きさえすれば、もうそれは音像だろうが、映像だろうが、漫画だろうが、文字だろうが、ライブだろうが関係ないと思うんだけど。
またまた繰り返すが、かつて音楽フィールドの人である筈のマイケル・ジャクソンでさえ『オズの魔法使』を基にした1978年のミュージカル『ウィズ』では諸手を挙げて引き受けてたし、最近だって映画実写版『Cats』でやはり音楽の人である筈のテイラー・スウィフトが嬉々として猫のコスプレ姿で出てきてたし。こうした事実が何を意味するかというと、彼らははなっから「私は音楽サイドの人です。それ以外の仕事を引き受けません。」なんていう変なプライドの乗っ取ったボーダーが無いのだ。もはやエンタメには色んなジャンルを作って、不毛なボーダー作って喜んでんのは恐らく日本だけではなかろうか。
 そして、そろそろこの国もそう言う壁をぶち壊して改めてエンタメの在り方を問い直すフェイズに来てるんじゃないだろうかとも思ったりする。ましてやこのコロナ禍においてはエンタメのなし得ること全てを総動員して真っ向勝負する必要があるのではないか、とそこにはジャンル分けなど全く意味をなさないと思う。

で、そんな事を思ってた矢先、遂にそういう作品に出会ってしまった。
正に2022年2月27日にこのエンタメ界で、コロナ禍への怒りをぶちまけて自らのプライドと意地をかけて真正面から向き合い、悲壮感のかけらもなくそれを高らかにエンターテイメントとして昇華しきった作品に出会ってしまったのだ。 
その作品こそが、ズバリ、創作あーちすと、のん氏が放つ真っ向勝負のオリジナル長編映画作品Ribbonである。


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2. Overview&Comments

さて、この早くも私内で2022年最高傑作の呼び声の高い、のん監督『Ribbon』に関してざっとストーリーを追っていくと以下のようになる。

コロナ禍の2020年。浅川いつかが通う美術大学でも、その影響は例外なく、卒業制作展が中止となった。悲しむ間もなく、作品を持ち帰ることになったいつか。

いろいろな感情が渦巻いて、何も手につかない。心配してくれる父・母とも、衝突してしまう。

妹のまいもコロナに過剰反応してリセッシュしまくる始末。普段は冷静かつオシャレな親友の平井もイライラを募らせている。こんなことではいけない。

絵を描くことに夢中になったきっかけをくれた友人との再会、平井との本音の衝突により、心が動く。
未来をこじ開けられるのは、自分しかいない―。誰もが苦しんだ2020年。心に光が差す青春ストーリー。

*3

[主な登場人物]

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🎀浅川いつか(のん)...主人公の美大生、就活は無事終えたもののアート活動に未練が?

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🎀浅川まい(小野花梨)...いつかの妹。少し神経質だがめちゃくちゃしっかりしてる。

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🎀平井(山下リオ).....いつかの美術大での親友。大学院への進学を予定している。

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🎗公園で出会う男、田中(渡辺大知)....いつかの中学時代の同級生。よくよく考えれば最も謎な人かも。

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🎀いつかの母( 春木みさよ).....娘いつかをいつも思ってるが芸術を理解できず空回りしてる。

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🎗いつかの父( 菅原大吉)....家族思いの優しい父親....なんだろうけど職質されたらダメだろwww

*4

いや、もう2022年2月27日、シネ・リーブル神戸にて2度連続鑑賞した感想を真っ向勝負で結論から言いましょう、恐れ入りました!!!!

正直にいうと本作を観る前この「ゴミじゃない」というキャッチコピーと共にのんがカラフルなリボンを背負っているこのポスターのビジュアルも目にしてて、なんとなくアート志向の音楽もかかったりする、知る人ぞ知る的な洗練された雰囲気映画かなと鷹を括ってたけどこれは大きく間違っていた!!!!

完全に舐めてました。
もう紛れもなく2022年を代表する大傑作です。
正に本作を定義すれば「コロナ禍で全てのエンタメがズダボロに寸断されていく状況下で のん監督がエンタメに生きる者としての怒りと意地とプライドとセンスの極みを掛けた超弩級の傑作である」と断定しても大袈裟ではあるまい。
2/27(日)に、本作を舞台挨拶付きのシネ・リーブルにて2回ほど観て既に1週間経過しているが、もうただ感動と感銘と共感の溜息しか出でこないのだ。もう余韻が半端ないのも本ブログの膨大な分量からも推察できよう。駄作からは一文字たりとも出てきません(笑)
あと断っておくがこれは、決してこの本名・能年玲奈かつ、現「のん」という国民的レベルに認知されている目のキラキラ輝く見た目麗しい女優が監督してて、そのバイアス込みでオマケ点込みで大絶賛してる訳ではないことも断っておきたい。
そもそも私筆者はこの「のん」という女優かつ創作あーちすとなるエンターテイナーは、一応過去、舞台作品を観てたり、神戸での新曲リリースイベントトークショーなどで実際に目の前で見て「凄いオーラのある女優さんだな。」と感心した事が幾度かあって、大好きな女優さんではあるんだけど、あくまで現在住しているだけ関西近郊に来た時に観にいく程度の「ライトファン」であって、所謂舞台挨拶や舞台に県外越えて遠征したりするほどの熱狂的な「コアファン」ではない事に注意したい*5


 だからむしろここまで本作に感動してる自分に驚いている次第である。
これは例え彼女の名を伏せて、覆面監督状態で鑑賞したとしても私は同じ様に上記のように大絶賛しただろうし、本作には喜怒哀楽のどれでもない感情の洪水の様な涙が溢れる瞬間が少なくとも三度はあった。

普段どんなに感動してもその場ではあまり落涙する事はない自分なのに。
 今現在コロナを経て不要不急のレッテルを貼られまくっているアートの権化のような、あののんさん自身の自画像のような立体的にデカいあの絵画アート作品の崇高なまでの気高さよ。

それを目の前にして「ゴミじゃない」、監督兼主役であるのん演じる「浅川いつか」という名の美大生は本編の中でも確信を得たかのように穏やかにこう断言していた。
そう、あのセリフはアートを含めた全てのエンタメは決してゴミなんかじゃないのだという思いに起因すると思うのだ。普通の平面のひょろ長い長方形の紙切れでも、きっちり折って結べば愛するひとへのプレゼントを際立てたり、女性の髪型を美しく彩ったりする「リボン」へとたちまちにして変身していくではないか。
 そこには大きいリボン、小さいリボン、青や赤やオレンジやピンクのカラフルなリボン、などなど多種多様なんだけれど、それらは人の喜怒哀楽では決して収まりきれぬ「感情」の象徴として様々な様相をも魅せてくれるようにも思ったりする。正に感情の景色を「再現」してくれるものとしてのリボン
 或いはこうも捉えられよう。のん氏自体、かつて能年玲奈という本名で国民的ドラマに出演するなど活動していたが色々な事があって本名での芸能活動の休止を余儀なくされている事実も本作品への着想へと少なからず貢献してはいないだろうか。

 彼女は既にコロナ禍以前にエンタメ活動を閉ざされるという挫折を味わっていて、そうした弊害をようやく乗り越えてようやく「あーちすと活動」が軌道に乗りかけていたこの時期に、コロナ禍ならではのニュース記事を偶然にも目にしてしまう。それがある美大生の「コロナ禍を経て私の創作物は全てゴミと化してしまったようだ。」というかつての自分の挫折を想起せざるを得ないような現実的かつ残酷すぎる独白。この不要不急の名の下にアート含めたエンタメの存在意義が失われつつあり、何とかして現状を打破しようとする状況下とかつての自分とかリンクしてやがて感情移入してできたであろうこの作品。

美大生、浅川いつかの心象風景は正にのん自身の投影でもあるのだろう。
その意味で本作は彼女のドキュメンタリー作品的側面もあるのかも、と思ったりもして。
因みに私は本作鑑賞中に「Ribbon」は主人公いつかが正に再びアートへ向き合いという意味での再生を表す「Re-born」とダブルミーニングかかけているのかな、と深読みしたということに自画自賛的に喜んでたのだが、それは誰しも考えてるみたいで見事にパンフレットの方で中森明夫氏の素晴らしいレビューにて既にガッツリ記述されていたんだけど(笑)。

これもドキュメンタリー云々という文脈で言えば当然と言えば当然なんだけど本作での浅川いつかのキャラクターのベースは「8日で死んだ怪獣の12日の物語」でのコロナ禍自宅にいる事を余儀なくされて通販で宇宙人を購入しても育ててしまうというのん演じるほぼ本人役のあの個性派女優が基盤にあると思う。その意味でも岩井俊二監督はエグゼクティブ・プロデューサー的な役割を無意識的にやってるようで、彼の影響が凄く大きい作品でもあると思う。

 ちなみに岩井監督は冒頭でも美術大学の担任教師、というもう雰囲気から風貌から物言いから彼以外いないであろうドンピシャな役で一瞬だけだけど出演していた。しかもあの電話シーンでの学校が休みになったとかで親からの苦情の電話受けての「いや〜、こう言う時期だから仕方ないんですからねえ....」というあの言い方めちゃくちゃリアルだったな。

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具体的な2/27の舞台挨拶でも触れてたエピソードをここで記述すると、主人公浅川いつかの装着してるマスクが最初は地味なものだったのだが、「ウレタン製マスク」になり→「ウレタンマスクのカラー」→「可愛らしい柄物」と徐々に明るさを取り戻していくのがわかる。
こういう所に劇中でアーティスト志望の女の子としての自分を取り戻していく心象風景の変化をも感じることができよう。あとマスク外して改めて自己紹介し合ういつかと田中が別れ際マスクを付け直しつつあたふたして別れるとことかほんとキメが細かいと思う。あといつかの親友・平井(山下リオ)と口論になったりするシーンとかめちゃくちゃ迫力あったし、その中で

いつか「何やってんだよ!!!!」
平井「”何やってんだよ”じゃないよ、ずっと絵を描いてたんだよ!!!!!

と言われた時のハッとした浅川いつかの表情が「そりゃそうだよな....」と微妙に変化する所とかこういうリアリティの突き詰め方もヒリヒリするし演出など物凄く細部にこだわり抜いていると思う。あとこれも舞台挨拶で触れてたが監督でも主演女優でもあるためどう演じるテンションを持って来ればいいのか悩むこともあってアクティングコーチなる人も雇っているのだそう。そういう意味でも本作の行き届いてる感も計り知る事ができよう。

 あとは劇伴音楽に関して触れておくと、あのSSWヒグチアイさんの妹、ひぐちけいさんを中心として作られたらしい劇伴音楽も神がかり的に合ってたと思う。何なんだ、特に平井の絵を二人でぶっ壊す時にかかったあのロックダイナミズム溢れるエレキギターが劇場中に鳴り響いた時、鳥肌で震えまくったものだ。
そうそう、これが前述した【喜怒哀楽のどれでもない感情の洪水の様な涙が溢れる三度の瞬間】の中の一つだ。因みにあの美しいラストのぶっ壊された絵の断片を幾多のリボンと共に貼り付けたいつかの自宅の卒業展覧会シーンも最高に感動的なんだけど、個人的に感情移入沸点が沸いたのは間違いなくこのぶっ壊しシーンである。

ここに彼女自身の人生の中で培われた怒りや苦悩が凝縮して、それこそ果汁120%ぐらいの濃度でドーンとブチ込められてていると思う。
で、何よりも素晴らしいのは本作は丸眼鏡かけてちょび髭はやしてベレー帽被ってしたり顔でニヤニヤして骨董品でも愛でるように映画作品を論じるあの気持ち悪い事限りなしのサブカル映画マニア・オンリーに向けてでは決してなく
【全宇宙のエンタメに関わるもの、そしてエンタメを愛する者、そしてエンタメそのもの】達へと全世界に放たれる太陽光のようにギラギラと光り輝いていると思う。もう一度繰り返すが、我々には偏りまくった狭い狭いファンダムコミュニティなどに塗り固められたエンタメ作品などには毛頭興味はないのだから。

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*6

3.『Ribbon』を紐解く傑作5選

これはあくまで私観なんだけど、本作『Ribbon』は青春をテーマにしたインディーズ映画のさまざまな要素が一堂に全て詰まっている作品だとも言えよう。例えばアルプススタンドのはしの方』でのテンポの良い会話劇の心地よさであるとか、『サマーフィルムにのって』
や或いは『佐々木、インマイマイン』でのスクリーンから主人公が飛び出してきたようなダイナミズム溢れるあの展開であるとか、あと『のぼる小寺さん』に顕著だった青春期特有のセンチメンタリズムであったりとかとか、あるいは起源を辿れば恐らくはこちらも既出したように(本作に最もインスパイアを与えたであろう)岩井俊二監督『花とアリス』なども挙げられる。

これらに傑作群を彩ってきた要素の全てを本作に感じられつつも、更にこの人にしか描けないであろう独特の空気感も伝わってくる完全なオリジナリティもあったりするのだ。

これらの5作品のエッセンスと『Ribbon』とのシンクロする点を並行して挙げていきたい。

Scene(1)『花とアリス』(2004) 岩井俊二監督


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本記事で挙げられている映画が全てコロナ禍以降の2021年以降に公開されていると考えたら2004年に公開ながらも17年以上もの年月を感じさせぬほどの色褪せなささに驚いてしまう。

しかし今観ても何なんだろう?この本作の放つ、このコメディとも言えようし、青春物語でもあろうし、恋愛映画ともカテゴライズできようができないか分からないというような様々なジャンルというペルソナをチラつかせながらもそのどれだともカテゴライズできず、どこかはぐらかされているようなこの感触。

こんな感触、どの岩井俊二監督作品でも当てはまるんだろうけど本作は特にそういう色合いが強い。そして本作は今でこそ認知されているけど、2004年当時、劇場で上映されていた頃はあまり客がいなかった印象ってか自分入れて2名なんて言う日もあったぐらいで、意外にも代表作というほど大ヒットしなかった印象だけど、時代を経ても徐々に徐々に安定して愛され続けている傾向にあるのも本作ならではというか...上田慎一郎監督や、今回のん監督であるとか根底で大きな影響を与えた作品であると言える*7

公園にてかつての中学時代の同級生、田中(渡辺大知)を遠巻きに見ながら「あいつ怪しい。」だ、「キモイ、こっち見てる。」だ「あれは不審者だ。」などと言って、君らその声聞こえてるだろ💦的なシーンがあるんだけど、
あと本作『Ribbon』との関係でいうと過去の作品になぞらえれば「花とアリス」の冒頭で新井花と有栖川有栖が朝の通学電車にてマーくんを見ながらあーだこーだ言ってる会話シーンを彷彿とさせる。

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Scene(2);『のぼる小寺さん』(2020)古厩智之 監督


工藤遥と伊藤健太郎共演!映画『のぼる小寺さん』本予告

 ストイックにボルダリングに打ち込む小寺さん(工藤遥)とそんな迷いなき彼女につい【見入ってしまう】どこか迷えるクラスメート達との人間模様を描いた青春物語。台詞は全体的に抑えめでニュアンスで示唆される彼らの心理描写を補うかのように挿入されるピアノ劇伴がただただ心地良かった。ちなみに本作は私は二回見ているが、1回目では小寺さんには達観したアスリートな印象があって、人工の無機質な岩壁に吸い込まれるかのようによじ登る小寺さんに何故誰もが惹かれてしまうのか疑問があった。二回目だとより彼女の魅力と人間味が増し、心象風景もクリアになり、きっとあの熱い視線達は「人生全てをかけて打ち込める何か」を誰もが模索していて、そんな彼女に向けられた羨望と願望の気持ちの現れだとも思っていたけど、誰かを応援する事は自己と向き合う事なのかも。

「なぜ君は登るのか?」彼女だってきっとその命題の答えは分からないだろうし、だからこそ目の前の壁に挑み続ける小寺さんに誰もが共感し得るまさに珠玉の作品だった。この「なぜ君は登るのか?」という問いは『Ribbon』以下の、

いつか「何やってんだよ!!!!」
平井「何やってんだよじゃないよ、ずっと絵を描いてたんだよ!!!!!」

というやりとりとどこか共鳴する感覚すらある。あと配役も被っていて『Ribbon』妹役の小野花梨さんは本作では「田崎ありか」という今回とはまたガラッと違うオタがかったカメラ女子役で出演しているのも興味深い。いや、でもこれパンフレットにすら載っていなかったので気づいたのはたまたま誰かがツイートしたのを目にしたからだったという、そういう人結構多いんじゃなかろうか。

 てかこうして比較してみても、もう完っ全に別人ですね(笑)

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この人もそうだが、最近よく出てくる河合優実さんとかもよく出てくるし、あと中村守里さんだとか、小野莉奈さんとかに並びそうな凄い才能を持った女優さんが本当に多いと思う。

 

Scene(3)『サマーフィルムにのって』(2021)松本壮史監督


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「スクリーンは過去と今とを繋ぐ。そして私はこの映画を未来へ繋げたい。」
そんな思いを胸に勝新マニアの女子高生が仲間達を集め、時代劇を撮ろうと奮闘するまで、という展開を予想していたら、更なる異次元へとぶっ飛ばされた。
2020年は『アルプススタンドのはしの方』『のぼる小寺さん 』などがあったが、2021年夏、また新たな青春映画傑作の誕生を祝福したものだ。本作でのポスター等にある通り3人の仲良し女子高生、その内訳は映画監督ハダシ(伊藤万理華)以外にビート板(河合優美)ブルーハワイ(祷キララ)という濃い仲良し3人組を中心に展開される。

とにかく昨年の夏に観たとき、本作のあの最後のラストシーンは意表をつかれた。

文化祭において映画部の部員である時代劇の監督でもある主人公が上映会の途中、しかもクライマックスの最中に突如音声と画面を無理やり中断させ「今、私、この映画の結末はウソだということに気づきました!今からキャストみんなでここで本物のクライマックスシーンを実演します!」と宣言。映画というフィールドをぶち壊し、そこで出演者たち全員でその場でチャンバラシーンがスタートする。そしてこれこそが私のやりたい結末を秘めた映画だと悟った瞬間に、本作はエンディングを迎える。あのシーンに賛否両論あるというのもめちゃくちゃ頷けるまさかの「映画完全否定からの、まるで演劇のリハーサルさながらチャンバラ合戦」インパクトは今考えるだけでも衝撃ものだった。監督はもうはなっからあのシーンを目指してストーリーを構成していったのだろうか。それぐらいあのシーンには迷いがなくて感情移入沸点が沸いたのは事実である。

そしてそれと全く同じようなシンクロニシティを感じたのが先述したズバリ、本作『Ribbon』におけるロックダイナミズム溢れるエレキギターが劇場中に鳴り響く中、平井の卒業制作巨大ジャングル絵画ぶっ壊しのシーンである。

多分のん監督も松本壮史監督もあのシーンを目指して映画を撮ってたんだろうなと思う。それぐらい迷いなき何かを感じるのだ。ほんとそういう迷いなき確信のある映画は強い。

 

Scene(4)『アルプススタンドのはしの方』(2020)

城定秀夫監督


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「頑張っている誰かを応援する」という意味では『のぼる小寺さん』とどこか相通ずる、こちらは甲子園を舞台とした元々演劇を土台としているので会話中心だけど怒涛の展開に感動してしまう青春群像劇映画。本作は合計にして13回ほど劇場で観てるんだけど、初回から一言(?)で言ってアホみたいな感想だが、「もう、めちゃくちゃ面白かった!!!!こんな笑えて泣けて、希望をもらえてほんのちょっとのセンチメンタルもあってこれほどのど直球の感動に出会すことなどあるだろうか!」に尽きる間違いなく令和2年の夏を代表する最高傑作作品だった。何せ、なんら文句のつけようがない、真っ当に素直に面白くて感動できるメインストリーム級の作品だとも言っても良い。この会話のテンポの良さにめちゃくちゃ笑ったし、途中のあるシーンでもこのシーンでも思わず力が入ってしまって声を上げそうになったし、またまた観終わった後の爽快感はまさにホームランでも打ったかのような気持ちだった。

本作『Ribbon』関連では、特筆すべきは姉・浅川いつかと、妹・まい(小野花梨)とのやり取りがめちゃくちゃ自然な点で神がかりすぎている点とリンクする。のん自身が舞台挨拶でも言ってたが、この二人の間(ま)は台本読み合わせの時からもうドンピシャで時間をほぼかけずにすぐに本番収録に持ち込んだようだと言ってたが、これはめちゃくちゃ納得してしまった。これは一昨年の傑作『アルプススタンドのはしの方』における安田あすはと田宮ひかるのあの前半の野球オンチ・グズグズトークのシーンをふと思い出したりして。

あ「ファウルボールに当たったら死ぬの?」

ひ「うちのおじさん当たったんだって。」

あ「おじさん、死んじゃったの?」

ひ「まだ生きてるよ。」

....みたいなもうコントのようなあの野球オンチトークなぞ、もうずっと延々眺めていたいくらいの心地よさだった。あの時これいずれ円盤化したら「あすはとひかる」のトーク集みたいな二人のショットのロング・バージョンを収録していただけませぬか、と切に願ったものだが、『Ribbon』における浅川姉妹の会話シーンも同様に延々ロングバージョンで観たいとも思った。是非この辺り円盤化などが叶った際には未公開シーンも見てみたい。

*8

Scene(5)『8日で死んだ怪獣の12日の物語』(2020)

岩井俊二監督


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だが本作は真っ向勝負にコロナ禍に対峙したテーマでありつつも、現実的になり過ぎず #岩井俊二 流の映像美を要に極めて芸術性の高い作品に仕上がっている。 本作はネット公開されたリモート作だから例外的なスタンスかと思ってたが、あのNorman's Nose👃のクレジットを見るにつけ、岩井俊二ド真ん中作品だと確信したし、あとほぼ本人役で役者・丸戸のんとして出演している のんさんがあそこまでニコニコしてあの瞳をキラキラさせて、しかもスクリーン一杯にドアップで観れる映画ってのもこの作品でしかあり得ないんじゃないかと思う。

のん自身は能年玲奈時代を含めて様々な映画作品に出演しているが、ここまでパーソナルな役で、多少フィクション入っていると言えほぼ本人役というここまで素の姿をスクリーンに投射した事はないであろう。そして注目すべきはコロナ禍で暇を持て余し通販で宇宙人を購入して飼ってしまう「丸山のん」という女優を演じるにあたってそれほど役作りというより普段の彼女のキャラクターが土台にあったのだが、本作『Ribbon』での浅川いつかの役柄のキャラクターとも付合するような感覚を覚えたのは私だけだろうか?これはまさしく先程述べたように本作自体ものん自身のドキュメンタリー的な意味合いがあるからこそ一致したように感じたのではないか?とか思ったりして。

 それにしてもコロナ禍以降、様々なリモート撮影で撮られた作品を観てきたが、どれも敢えて具体名を伏せる事でエンタメ性を保っているものが大半であるが本作は本当にコロナ禍が真っ只中という文脈の上で成立している。こういう作品は本作と『Ribbon』と、松本大樹監督『コケシ・セレナーデ』と、あとこれはドラマだけど『孤独のグルメ』にしかまだ出会した事がない。そんな現代の希望に満ちたお伽話を作ったこの年に作った彼には感服しかない。*9*10*11

*12

 

4.オリジナル新作の果たすべきロール(役割)とは?

さて、突如舞台を1月11日に大阪のLOFT plus oneにて開催された公開記念イベント「上田慎一郎監督と皆川暢二 のスペシャトーク」に移そう。

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初めに「ある朝、突如逃げてしまった男性器(通称:ポプラン)を探す旅に出る」という絶対あり得ねえエクストリームな設定に大爆笑すると同時に「自分とは一体何者なのだろうか?」というある種の哲学的な命題に対峙しなければならぬこの主人公、田上の置かれているリアリティにふっと我に返ったりと、正にとコミカルとシリアスの塩梅がこれでもかと表裏一体ピッタリと対峙しているのが珍しいくらいの本当に味わい深い傑作である。*13


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この映画のトークショーが開催されたのは、公開直前だったこともあって作品を紹介しつつそのネタバレをひた隠すスリリングさが滲み出るトークに爆笑したものだが、彼が「自由とは制限があってこそ享受できるものだ。」と言った時物凄くハッとしたと同時にこれが上田監督のバランス感覚なんだよな〜とつくづく思った。彼の作品群にはディズニーやマーベル、DCなどとあい通じるエンタメ精神がありつつも、ど真ん中にいるようでふと垣間見えるナイーブな程に知的な側面も垣間見えるのだ。コミカルとシリアスさとリアリティのバランスの絶妙さと時にそれらをぶち抜くようなギミックの妙技の組み合わせが、彼の作品を唯一無二の存在にしていると思っている。

 そこで本題に入るが、このトークの場で「シリーズものや原作ものではない"オリジナル作品"を世にドロップアウトする事の難しさ。」について上田慎一郎監督・皆川暢二の両氏共々触れていた。

現にこの皆川氏演じる田上は漫画をテーマとするネットアプリの運営会社の社長になっていて、本編にも「オリジナル作品では売れない。既存作のリイシューが全てだ。」などというセリフもいくつか存在していたと記憶している。

そしてこのトークの場で上田氏は以下のようにも断定したのだ。
「この話は過去の作品である『カメラを止めるな!』然り『スペシャルアクターズ』など群像劇が多かったが今回はそれらとは一線を画している。これは私上田慎一郎の【私小説】として位置付けられるかもしれない。」と。そう、『ポプラン』はそんな彼の本質・核(コア)を体現した作品なのだろうと確信したものだ。そうか、確かに既存作品のリイシューされたものや今の時代に合わせて再構築されたものはそれはそれでロマンがあるし、面白さの安定性に関してはガッチリと保証されているから売れることが見込まれる。でもと同時に面白さの枠組みの限界が固定されているため決して「奇跡」は起きないのだと思う。それはコミュニティを作ってその中の人だけで楽しみましょうみたいな生ぬるい空気感。

もうこれは分かりやすいので、ハッキリ例示してしまうが、私にとってあの大ヒットしている『スパイダーマン〜ノーウェイホーム』は全然面白い作品だとは思えなかった。ただ私のようなMCUに疎い人間でもあの最後の歴代主演やらヴィランが一堂に解するあの展開は度肝抜いたし、笑い所も泣かせ所もある壮大なバラエティとして楽しめたのは否定しない。だが、その反面、製作サイドとファンとの間でのみ成立する「内輪受け」の域を超える事がなかったとも正直に思ったのだ。要するにスパイダーマン としての業を背負った主人公の苦悩や怒りの部分が抉り出されてなかったし、スパイダーマンを通じて社会情勢に訴えかける的な外へ向かった感じじゃなく真逆だったのが意外だったくらいだったから。それが「これは今流行りのマルチヴァース展開だから仕方ない。」とかひっくるめられればそれまでだが、それにしても、完全にMCUワールドの内部だけで成立するコミュニティだけで世界観を確立させガラパゴス映画だったとも言えるんじゃないかと思う。まあ井の中の蛙」つっても世界規模の井の中の蛙なんだけど、所詮井の中は井の中なので周りの景色は見えないのだ。故に本作は残念ながら真っ向勝負していないんじゃいかという感覚は否めなかった。それに引き替え、である。この『ポプラン』であるとか今回のRibbon』などのオリジナル新作には今の時代を直感的に捉え、直視して、真っ向から挑んでいく気概を凄く感じるのだ。繰り返しになるが映画マニアに向けてでは決してなくここの所閉ざされてしまったエンタメ全体への光を再生へと促す太陽光のような役割を担っているのだと思う。今、我々が欲していて、これからも必要なのはこういうシリアスな状況に真正面から立ち向かった真っ向勝負のエンタメだと思う

そういう真っ向勝負要素は原作ものや既存作の再構築だけでは不十分だと思う。

レジェンドなど死んでしまえ。かのジャズの帝王、マイルス・デイヴィスだって以下のように言っているじゃないか。

A legend is α old man with  cane known for what he used to do. But I'm still doing it until I die.

 

伝説というのは、過去の業績にしがみついている老人のことだろ。そんなことになるぐらいならオレは死ぬまで現役を続けるよ。

つまりそういう事なんだと思う。

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本記事のGrand Conclusionとしてまとめると本作『Ribbon』が何よりも時代と共に寄り添い全世界の人口78億8796万3616人の目に留まる価値のある作品だという事、そして2022年全ての季節、いやそれ以降もずっとを駆け巡ってくれることを切に願う

そうすれば「世界はきっと平和になる」だろう....という唐突ながらJohn Lennon『IMAGINE』の歌詞を一部引用して14200字にも及んだ本レビューを壮大かつ強引に締め括っておきたい。


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*1:本レビューはFilmarks映画に執筆したネタバレありレビューを元に大幅に加筆修正を加えたものである。文字だけのサラッとしたバージョン、と言いたい所だがこっちですら5000字ぐらいあるんだけど(笑)

filmarks.com

*2:この辺りの記述はほぼこの記事の前半部と同じです(自分でバラすなw)

nenometal.hatenablog.com

*3:公式サイトより引用。

www.ribbon-movie.com

*4:これらの人物写真はこちらからの引用。

www.cinemanavi.com

*5:てかこういうガチのんファンの人結構多いんですよw、ファン同士が「今日は愛知から新幹線で明日の東京も夜行バスで行きます。」などと言ってるのよく耳にするから。

*6:シネ・リーブル神戸での13:00~と16:20~の上映前後の筆者自ら撮った写真。撮りすぎてどっちがどっちかわからん為まとめて掲載w。あ、司会の女の人語り口丁寧だったな、神戸ローカルのベテラン・アナウンサーだろうか。

*7:花とアリス』は上田監督作品では特に『恋する小説家』辺りにすごく影響を感じてるが実際はどうなんだろう。

*8:『アルプススタンドのはしの方』に関するレビューはこちら。

nenometal.hatenablog.com

『サマーフィルムにのって』に関するレビューはこちら。

nenometal.hatenablog.com

*9:『コケシ・セレナーデ』のレビューはこちら

nenometal.hatenablog.com

*10:あとこれはGCLによる完全インディーズ制作の舞台俳優によるプロジェクト『GCM動画日記』だけどこちらもコロナ禍に向き合っているよね。全ての面で先をいってたよね。

nenometal.hatenablog.com

nenometal.hatenablog.com

*11:本作は2回観てるんだけど
❶日々進化していく怪獣君に感情移入する事に成功(笑)

❷丸戸のんの相棒であるあの宇宙人の脳内ヴィジュアライズ化にも成功(笑)

❸樋口監督の顔ひっくり返してまで検証する所ともえかすYouTubeチャンネルのリアリティっぷりにマスク越しに吹き出すなど

*12:あと初回見た時から気になったのが主演・斎藤工氏が後半め辺りで着ていたtシャツに「難波Mele」と書かれていた件。あのライブハウスは去年スクリーントーンズで行った事あったから知ってるけど、斎藤氏はあそこに行ったりするんじゃろかねʕʘ‿ʘʔ?

*13:本作も死ぬほど感動してるのでつかブログ記事にせねばならんな。

The Beatles Get Back;ルーフトップ・コンサートReview〜あの1969ふたたび

いや〜、もうめちゃくちゃ音が良かったってか映像が1969年のものとは思えんかったってか凄かった。

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 そもそもビートルズ・ヒストリーの中でもアルバム『LET IT BE』の曲達ってもはや解散寸前でメンバーも仲が悪くて曲も寄せ集め感がなんとなくあって、陰鬱なアルバムってイメージを持ってたんだけど、その中の曲達がかくもエモーショナルに、ロックダイナミズムを持って鳴らされてるのかと新鮮な驚きがあった。ちなみに本作は、シネマサンシャイン大和郡山 IMAXレーザー席で『ナイル殺人事件』と立て続けに観たが臨場感がハンパなさすぎて本当にスクリーンと私との間に壁はなく、ほんとにエジプトにいたし、ビートルズも目の前にいるのような鑑賞レベルを超えた疑似体験。ここ最強すぎる。
 あとこちらは2回目観て気づいたんだけど、ジョージ・ハリソンの最もビートルズを客観視してて冷静に状況分析するプロデュース力にもハッと気付いた。
LIVE中、警察がやってきた件を瞬時に察知してて、LIVE後、最もその要因について知りたがってて、の後即座に「その警察の件は映画でもありのまま使って。」ともうストーリー構成まで考えてたのだから。


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あと、去年観たoasis『ネブワース1996』はあれだけ時間割いてフルで流したのがそれこそビートルズの『I Am the Walrus』のカバーだけというやや残念な面があったが、本作は1時間内で出来るだけ曲演奏シーンを盛り込もうとするそこはディズニーならではのサービス精神を感じたり。冒頭のビートルズヒストリーみたいなやつも短いながらもキッチリまとまってたし。

nenometal.hatenablog.com

あの警察官達とスタッフとのやり取りもハラハラさせてスリリングだったし、正に半世紀以上を経てビートルズが戻ってきた(get back)ような気分だった。
あと興味深かったのは若い男性へのインタビューで「今のビートルズは嫌いだ。変わってしまったから。」という残酷かつ正直な意見のものもガッツリ収録されていた点。そりゃそうよね、いくら大物人気ロックバンドとは言え僅か8年間で「初期→アイドル→サイケ→原点回帰」というまで目まぐるしすぎる変遷を経たバンドだけにリスナー側が混乱するのは当然だろう。もうアルバムごと、いや曲単位で彼らの表情とか目の色とか髪の質までほんと違って見えるんだよ。本当に稀有なバンドだと思う。


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てかJohn Lennonだけ取り上げるけど、ビートルズのデビューから40歳までの20年間これだけ髪型が変わろうが、髭が生えようが剃ろうが、グラサンだろうがメガネだろうが、メガネ外そうが全然印象ブレずにどの写真見てもやっぱり【ジョン・レノン】として認識されてるのかなり凄すぎると思うんですけどw

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ふとこの映画でも最後辺り演奏シーンが収録されている「Let it be」のbeって実はbeatles自身ではなかろうかとも思ったり。


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「Let it Be(atles)〜なすがまま、ありのままにビートルズのメンバーのままで居させてくれ。」との願いから敢えて解散を選んだ、と。そしてlet it beとほぼ同義のas it isを組み合わせるとBeatlesのスペルが完成するのだ。
*1

BeatlesLet it Beas it is→It is BEATLES

 

今日リリースされたthe Beatles “Let it be”2021Mixのアルバムタイトル曲“Let it be”がアップルミュージックのドルビーサウンドも相まって物凄く立体感あるサウンドになっている。

本曲には淡々としたイメージがあったけどここまでエモーショナルな演奏だと思わなかった。あとこちらはFerry Aidというフェリーが沈没した事件を受けてチャリティーで80sのスーパースター達が集って歌ったという伝説の「Let it Be」要するに『We are the world』のintuitionを取り入れた企画(なんて良い言い方ww)と言えよう。


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*2

 

*1:或いはletitbeというアルファベットに個を表す冠詞の「a」と複数の「s」を足するとbeatlesと綴れることからあの曲自体が彼らの骨格だったのかな。

*2:しかし海外もビートルズだ、ウエスト・サイド・ストーリーだ、半世紀以上前の素材を掘り起こす的な事をやってて何だかんだネタが尽きてるのかな。
確かにまっさらな新作オリジナルで勝負かけるのはリスクを伴うが、既成ものリメイクだけじゃ収益は確実だが、たかが知れるってかロマンがないとは正直思う。

アメイジング・グレイスが鳴り響く時〜映像劇団テンアンツ『#コオロギからの手紙』爆裂レビュー!

1. Comprehensive Review

Amazing grace
how sweet the sound
That saved a wretch like me

I once was lost
but now am found
Was blind but now I see

 

驚くばかりの神の恵み
何と美しい響きであろうか
私のような者までも救ってくださる

道を踏み外しさまよっていた私を
神は救い上げてくださり
今まで見えなかった神の恵みを
今は見出すことができる

 

'Twas grace that taught
my heart to fear
And grace my fears relieved

How precious did
that grace appear
The hour I first believed

神の恵みこそが
私の恐れる心を諭し
その恐れから
心を解き放ち給う

信じる事を始めたその時の
神の恵みのなんと尊いことか

 

Through many dangers
toils and snares
I have already come

'Tis grace hath brought me
safe thus far
And grace will lead me home.

 

これまで数多くの危機や苦しみ
誘惑があったが
私を救い導きたもうたのは
他でもない神の恵みであった

 

Amazing Grace』より

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....時は2月8日の大阪福島駅から徒歩10分ほどの所にあるABCホール。またまた今回の記事は前回同様、「映像劇団テンアンツ」に関しての記事である。今回は舞台『コオロギからの手紙』である。この日は17:30開演の上演に来たのだが、休憩時間を挟んで3時間半(「18:00〜21:30」ぐらいまで)という個人的演劇観劇時間としては史上最長の演目である。そして、個人的に演劇に関して昔から思ってるんだけど、時に人生観を突きつけてくる映画や、直に音像を体感できる音楽ライブには各々そこでしか味わえない魅力があるが、それらとは違って直に人生観に向き合う事を余儀なくさせる演劇は持って帰る「何か」が特別だと思う。

だから他のエンタメ以上につい気合を入れて観てしまうし、映画やドラマ以上にその演目がいかなるエンディングなのかについてはものすごく重要視してしまうのだ。

ちなみに演劇は大きく分けて2つのパターンに大別される。

①ハッキリ「以上!終わり!」みたいに幕が下がるパターン②少し曖昧にしてポーンとこちらに投げかけるパターンである

で、圧倒的に多いのが意外と②。もし演劇のコアが余韻だとするならば結論部分はあなたの中で物語を育てて下さいって事で確かにこちらの方が余韻が残る気がする。そして今回、正にそういう事についてさらに深く考察させられるべき演劇に出会った。

それが今回のテーマ、『コオロギからの手紙』である。

本作はそんなエンディング論を最終章で深く考察するとして『コオロギからの手紙』を鑑賞しての余すことなくありのままの思いを書き綴ったネタバレありきのダイナマイトにニトログリセリンをぶち込むような爆裂レビューである。

構成は以下の通り。

 

「これぞ、上西雄大のenclyclopedia〜『コオロギからの手紙』爆裂レビュー!」

The Table of Contents

1. Comprehensive Review

2. Focusing Review

 Focus(1);Amazing Grace

 Focus(2);Desperado

3. Consequental view

10ants.jp

Rough Story

時は昭和37年の神戸、主人公の神木(こうのぎ=通称コオロギ)は向かう所敵なしって感じのとても喧嘩の強い893である。たが、その肩書きの割には中華料理屋の親娘であるとかたばこ屋の婆さんであるとか一般市民には慕われている。
ただ、そんな彼にもコンプレックスがあって家庭事情から十分な教育を受けておらず学校に行けず文字が読めない、いわゆる「失読症」なのだ。

そんなある日、小学校教師の聡子はスリから助けられたお礼にと、灯台の見える教室(灯台教室)にて字を教える事に。

最初は鉛筆の持ち方すらままならぬコオロギであったが、次第に文字を覚え始め、徐々に聡子に好意を抱くようになる。そしてその好意はコオロギだけでなく、聡子にとっても同じこと。好意はやがて「恋心」に発展していくのだが、「893がカタギの人間と一緒になることはできない。」

更に、コオロギが所属している893組の組長はなんと密かに実の息子(豊)よりも度量があって強いコオロギに跡を継がせようと思っているのだ。

それをなんとなく察知している息子は当然コオロギに八つ当たりするようになる。

と言ったものだが、この「コオロギ」の名を見て熱心なテンアンツファンならずとも『ねばぎば新世界』を観た事のある人なら誰もがあの「喧嘩っ早いが人情に熱いあの男」を想起するだろう。そう、間違いなくほぼほぼあのコオロギの前世の姿、というのもちょっと違和感あるので、もっと分かりやすく言えば手塚治虫の漫画作品に登場するような、時代背景問わず「鼻のデカい男」と言うプロトタイプとしてお茶の水博士(from『鉄腕アトム』)と猿田(from火の鳥鳳凰編』)が出てくるのと同じような感覚で、昭和37年・神戸を舞台に「喧嘩っ早いが人情に熱いあの男」さながらあのコオロギが出現している状態、と言った方が分かりやすいのかもしれない。


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そして、他の上西雄大監督作品との関連で言うと、上から金物が降ってきたり、スリッパで頭叩いたりする場面も多く見られたりするが、それは『西成ゴローの四億円』にも散見されたような吉本新喜劇ナイズドされたお笑いの要素も舞台上にふんだんに盛り込まれている点で共通しているのかもしれないし、或いはコオロギがズダボロになりながらも献身的な人間愛を貫き通す姿など『ひとくず』における上西雄大作品の全てのエッセンスがここに凝縮されている。

所謂本作は【上西encyclopedia】と呼称すべき舞台演劇だと定義しても良いだろう。

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更に上記で掲げたポスターなどのビジュアルイメージから人によっては「演劇」というよりは「古き良きお芝居」を想起される人もいるかもしれないが、実はそういう側面はあまり無くてこの3時間15分もの長丁場の時間を一瞬に思わせるほどに場面転換も割と多く、細かい動きと音の合わせ方などのテンポの速さは個人的に色々観てきたキャラメルボックスなどの演劇に近い。じっくり作品を観て享受するというよりも綿密に練られた物語構成を体感する感じ。

そして、先ほど主人公コオロギのキャラクターを説明する上で手塚治虫を例示したが、昭和37年というこの舞台上の時代設定を超え、突如コオロギが昭和37年神戸という設定を超えて「この芝居の主役はオレや。」などの割と客観的な台詞も放たれたりたりする。これは手塚漫画に顕著だった突如コマ割りから外れるメタ的な視線も多用されている事も多いに貢献していると思う。

こういう手法は映画などの映像系統作品だとわざとらしくなりがちなので舞台演劇では物凄く効果をなす手法だと思う。

で、そもそも私は本来大所帯の群像劇的な演目よりも、日常の何気ない風景を描いた少人数の演劇を好む傾向にあるのだが、そんな私が本作3時間15分をあっという間に感じてのめり込むことができた。その理由は

①前半を喜劇的な展開、後半をシリアスな人間ドラマ寄りにした飽きさせぬ構成
②①の中でそれぞれの役割を全うさせるにふさわしい役者陣の演技力
③前半を昭和歌謡曲、後半をアメリカを中心とした音楽などによる演出効果

が本演目には組み合わされており、これらの織りなす説得力が半端ないのだ。いや、そもそも本作に限らず他の映画作品においても上西雄大というか、劇団テンアンツはいつもそんなエンタメの醍醐味を教えてくれると思う。

 更にこの続きについて考察しよう

とうとうカタギに戻ることを決意したコオロギはとうとう長年彼の面倒を見てきた組長の元に説得に行く。だが、親分は話を聞くまでもなくもう彼の心を見透かしてて
「お前はもうヤクザの目ではない。(中略)お前には惚れた女がいるんだろう。でもな、カタギの道に戻るには幾多もの困難があるだろうが。これが餞別だ。」と言って現金の入った袋を渡す。だが、話はそう簡単に済む筈はなくて、前々から彼に反感を抱いていた組長のバカ息子・豊がそれをそれを不服に思い(てかコオロギがこのままヤクザとして残ったとしてもコオロギより無能扱いを受けているので反感は抱いているだろうが。。。)とうとう彼との決着を挑む。
指詰めろや!!!」と絡んでくる。

コオロギもせっかく親分からカタギになる許可もらったばかりで、全く彼とは闘う気は無いのだが「殺してやる!!!」もうバカ息子は完全にエンジンかかっててて、もう本気だ、殺されてしまうじゃんか。
仕方なしに彼を殴り合いの大決戦になる、しばらく殴り合い蹴り合いが続くんだけど、意外とというか力の差であっけなくバカ息子・豊はやられてしまう。
よし、これでようやく先生の待つ灯台教室に急ごう。
そう思った瞬間なんとまあセコいことにバカ息子が密かにこおろぎの背後に回ってきて手に持ってるナイフで背中を「ぐさっっっ!!!!!!!」と背中をぐさりと刺されてしまうのだ。
コオロギは井戸に落とされて「卑怯じゃねえか!!後ろから刺すとは」

当然コオロギはぐったり….。
「ああ、先生、灯台で待ってるだろうな。お会いしたかった…..。」

そして「俺がカタギになって働くから一緒に暮らさねえか。」

聡子先生にあの言葉の続きを先生に伝えたかった…。」と言っておもむろにノートと鉛筆を二本取り出し聡子先生から教わった「お箸の持ち方」からの「正しい鉛筆の持ち方」へすり替わるやり方で鉛筆を握って、あの先生への想いをボロボロの体でしたためようととする。
そして、絶妙にタイミングでバックに流れるのはアメリカ第二のアンセムとまで言われる『アメイジング・グレイス』が流れるのだ。
「アアアアア〜メイジン' グレ〜〜ス♪」
あの悲しくも壮大な旋律のメロディと、コオロギのやるせない心情とがオーバーラップしてビシビシと伝わってくるのだ。曲が終わらないうちに流れ行くたびにコオロギの背中に伝わっていく血の量も増していくのだろう...同時に彼はばったりと倒れてしまう。

❶使用曲;Amazing Grace


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❷使用曲;Desperado


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そこでこの場面は一旦暗転して終わる-----んだけれども、ここまで来て私はコオロギは「100%もうあの世へ行ってしまった。」ものだと確信したし、私のみならずとも初めて本劇を見た他の観客は誰しもそのように思った事だろう。

だって正にそれを裏付けるかのように、まるで遺書さながら手紙を受け取ってコオロギ自身の声が聡子先生に読み聞かせるように重なり、バックで何と季節外れのコオロギ(こっちは虫の方ね)の鳴く声が聞こえてきた場面があるではないか。

そこで「きっとコオロギさんも見守ってまっせ。」と老人が語りかける台詞に思わず納得。

そして、それを聞いた瞬間私の心の中にスーーーーーっとタイトルの意義と意味とコンセプトがスポンジに水が浸透するように馴染んできたのを覚えたものだ。
そうか!だから「コオロギからの手紙」なのねと。
単にこの「手紙」というのはヤクザ者であるコオロギが字を覚え瀕死状態で愛する者への想いを綴った「私信」であるだけでなく、虫としてのコオロギの鳴き声を人間としての彼に見立てる事で、誰もが心の中に抱いている「誰かに自分の思いを伝えたい。」という普遍的な現象へと昇華するのになるだろうし、あのコオロギの美しいコロコロとした鳴き声が、先生のコロコロとなる笑い声にもオーバーラップするような気もしたのだ。*1

人に思いを伝えそれを享受する事の大切さ、その象徴としてのコオロギ、これは何と素晴らしい結末なんだと納得していたのだ

ところが…..である。
なんとコオロギは「生きていた」のだ。

もう一度言おう。なんとコオロギは「生きていた」のである。
しかしその後、実は井戸に閉じ込められた彼は何とか生き延びていてというか、そのヤクザの子分が井戸から引き上げて彼を助けたって言う状況を借りているんだけれども、結局は生き延びていて、そして彼を刺したバカ息子の方が逆に井戸水に落とされて死んでしまっていたのだ。ちなみに彼の死体は後に白骨死体化されて発見されるのだがどれぐらい経ってんのだろう。大体夏場で一週間、冬場で一ヶ月という事なんだけどコオロギの服の感じからすると秋以降(10月〜11月)ぐらいかな?

そしてその何とかコオロギは生き残ってて、足にダメージをうけてそれを引きづりながらもダンホール搬送などを主としたある運送会社で働いてる様子。*2 そうこうして、聡子先生に弟子が気を使って運送会社の居場所を教え、もう会うことはないだろうと思われた聡子先生と最後の最後に再会を果たすのである。そして、最初は照れまくっていたコオロギはあの手紙で綴ったあの約束の言葉、いや愛の告白と言っても差し支えないであろう、それを読み上げる....そして先生をぎゅっと抱きしめて、この3時間15分に及ぶ物語はとうとう幕を閉じるのだ。

「これはなんと完璧な感動のストーリーか!!!!!」と実際私もそう思ったし、これまでの3時間過ぎた長丁場に渡る時間が必然のように、美しく、最も理想的な形で昇華・収束していった事に対して、希望の光を見出されたとすら思った。まさに劇中でかかっていた「見上げてごらん夜の星を」のごとく、この後もうスッキリ&サッパリとした気分でABCホールを後にした。この後、コロナ禍という事情ゆえに、役者達との面会タイムは勿論なかったのだが、そんな事どうでもいいじゃんと思えたほどだ。だって上西雄大作品の中でもエンタメとそれと裏腹にある絶望とうまく融合させて最後は壮大なハッピーエンド締め括られたのだから。

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だが、そう思ったと同時に、どことなく違う感情も私の中で芽生えたのも事実だったのである次の章ではなぜ私がそう思ったのか、別の視点で検証してみたいと思う。

 

2. Focusing Review

なぜ満足感とは違う感情も芽生えたのか?

だってよくよく考えてみてほしい。私はこの結末の10分ほど前の場面で

バックで何と季節外れのコオロギの鳴く声が聞こえてきた場面があるではないか。

そこで「きっとコオロギさんも見守ってまっせ。」と語りかける台詞に思わず納得...

....と書いたようにそのセリフに私は逐一ものすごく納得していたではないか。

しかも冒頭で聡子先生の「昔、コオロギという人がいました」的なまるで故人を思うようなモノローグが残っていたりもして回想録となっているのかとも思ったりしたし。

ハッキリ言ってしまうと、もしこの物語が最後に希望の光を導くものである事を志向するものであるならば、別に彼は必ずしも生きていなくてもよかったのではないかとも思ったのだ。

しかも、これも先述した通り、この場面の時、あの曲の切なさとコオロギの虚しさとがシンクロするかのようにAmazing Graceが流れてきたのは前述した通りだが、あの曲のどこか壮大だけど、人生全体を俯瞰で見るようなメロディを宿した曲調であるとも同時に感じてて、それがどこか死んで行く者を送る「鎮魂歌(レクイエム)的なニュアンス」「敗北を喫した者の気持ち」とを同時に感じてしまったのだ。

我が思いが正しかったのかどうか本曲における歴史的な側面を検証してみよう。

Focus(1) Amazing Grace

*3

作詞者はジョン・ニュートン (John Newton)。

作曲者は不詳。

ジョン・ニュートンは1725年、イギリスに生まれ、商船の指揮官であった父に付いて船乗りとなったが、さまざまな船を渡り歩くうちに黒人奴隷を輸送するいわゆる「奴隷貿易」に
手を染め巨万の富を得るようになった。

当時奴隷として拉致された黒人への扱いは家畜以下であり、
輸送に用いられる船内の衛生環境は劣悪であった。

このため多くの者が輸送先に到着する前に感染症や脱水症状、
栄養失調などの原因で死亡したといわれる。

ジョンもまたこのような扱いを拉致してきた黒人に対して
当然のように行っていたが、1748年5月10日、
彼が22歳の時に転機はやってきた。

船長として任された船が嵐に遭い、非常に危険な状態に陥ったのである。

今にも海に呑まれそうな船の中で、彼は必死に神に祈った。
敬虔なクリスチャンの母を持ちながら、彼が心の底から神に祈ったのは
この時が初めてだったという。

すると船は奇跡的に嵐を脱し、難を逃れたのである。

その後の6年間も、ジョンは奴隷を運び続けたが、1755年、ジョンは病気を理由に船を降り、勉学と多額の寄付を重ねて牧師となった。

そして1772年、「アメイジング・グレイス」が生まれたのである。

この曲には、黒人奴隷貿易に関わったことに対する深い悔恨と、
それにも関わらず赦しを与えた神の愛に対する感謝が込められていると
いわれている。

そう、ここにコオロギにおけるヤクザとしてのステイタスから浮かび上がってくるマイノリティ感は18世紀におけるこうした黒人奴隷たちの姿とどことなくオーバーラップするのだろう。そして本曲を聴いた時に、何となく感じていた「敗北を喫した者の気持ち」もそうしたコオロギ自身の幼少期からの教育的機会に恵まれずに文字を読めずにいて後年大人になってもそれを馬鹿にされ続けた厳しい現実とも重ね合わせられよう。

そしてさらに重要な事にこのAmazing Graceとは、「罪をの赦(ゆる)し希望を望む唄」であることも忘れてはならない。

そして本演目の中でのコオロギも聡子先生への手紙をしたためる事によってれまでのヤクザとしての悪行を精算すると同時に、彼女の今後の人生に対して幸福と平和を愛をもたらすよう祈りを捧げる効果があったのだと思う。それにはコオロギはこの世から去ってしまって生を全うする状況になってしまう方がしっくり来るのではなかろうか。

だから本曲が本演目の本シーンに使われたのは必然であるとすら思ったものだ。

 

Focuse(2) Desperado

そして、もう一つのキーとなる曲がある。紛れもなく1970sを代表するアメリカのロックバンド、The Eagles1973年に発表したセカンド・アルバム『Desperado(邦題;ならず者』に収録されているタイトル曲『Desperado』である。

では本曲の歌詞に一部の本演目のシーンとオーバーラップする部分を引用する。

*4

Your prison is walking through this world all alone
君はそんな檻に閉じ込められたままでこの世界を独りで生きていくのかい

Don't your feet get cold in the winter time?
君の両足はちゃんと冬の寒さを感じられているかい?

The sky won't snow and the sun won't shine
空からは日差しも注がれない雪さえも降らない

It's hard to tell the night time from the day
昼と夜の区別もつかないような状況で

You're losin' all your highs and lows
君は人生の最高の瞬間も最低な瞬間さえも味わえずに生きているのさ

Ain't it funny how the feeling goes away?
そんな何もかもを捨てて生きていくなんて何かおかしいって感じないのか?

Desperado, why don't you come to your senses?
君ってどうしてそうなんだ?そろそろ気付いてもいい頃なんじゃないか?

Come down from your fences, open the gate
そろそろそこから降りてここまで歩み寄ってこいよ

It may be rainin',
雨が降るかも知れない

but there's a rainbow above you
けど君の上にもいつか虹がかかるはずさ

You better let somebody love you
(Let somebody love you)
君が誰かに愛されて生きていくのもいいんじゃないかって思うんだ

You better let somebody love you
君も誰かに愛されて生きていくべきだって思うんだ

Before it's too late
手遅れになってしまう前に

この冒頭の、Your prison is walking through this world all alone
(君はそんな檻に閉じ込められたままでこの世界を独りで生きていくのか)

と言う部分は何もアウトローとして生きているコオロギのみに当てはまる状況ではないことがわかる。むしろこれはお嬢様として育てられ、常にボンクラ限定の見合い相手ばかり押し付けられる聡子先生にも当てはまるのではないだろうか。両人にとっても「昼と夜の区別もつかないような人生の最高の瞬間も最低な瞬間さえも味わえずに生きている状況」なのだろう。

だがそれはどうしたら解決できるのか?上記の歌詞で出てくるのは「雨」「虹」そして「他の愛すべき誰か」こそが大事であって明らかに本演目上の設定になぞらえていくと、これは別に彼ら二人にとって共通する世界を築いていくのではなく、むしろコオロギサイドが一歩離れた地点から聡子先生へとメッセージしていく、正に「手紙」の役目を果たしているようにしか思えないのだ。もう一つこの『Desperado』が手紙としての役割を果たしている説を唱えるには決定的な証拠があって、本曲は実にカバーされているアーティスト数が半端ないのだ。正に1970年代のリリース以降、時代や国境を超えてを多くの人々にカバーされている本曲『Desperado』自体も手紙のような人から人へとカバーによって伝達していく役割を担っていると結論づけられよう。

*5

 

3. Consequental view

さて、ここまで1章にて『コオロギからの手紙』でのクライマックス・シーンまでの概要と主観、2章にてエンディング・シーンとのそれ以前の主に音楽にまつわる演出との整合性について概観したがここでハッキリした事は「コオロギは生き返るべきではなかった」のではないだろうか?或いは言い方を変えると、ラストシーンで「二人が抱きしめあって幕を閉じる結末部分はあまりにも物語的整合性を指向しすぎて美しすぎた」のではないかとも思ったりもするのだ。

繰り返しになるがあの手紙の内容が

「コオロギ(と言う一人の男)からの(沙都子という女性に送られたラブレターとしての)手紙」

コオロギ(と言う一人の男の魂が昇華したことによって全ての生きとし生けるものにも派生する思い)からの(沙都子のみならず全ての想いを受け取るものとしての普遍的な)手紙」

として解釈するには十分すぎるほど『Amazing Grace』であるとか『Desperado』がその役割を果たしていたように思うのだ。そして、私は第一章で

最も理想的な形で昇華・収束していった事に対して、希望の光を見出されたようでとてもこの後もうスッキリとした気分で劇場を出ることができた。

と言ってるんだけど、果たして演目としてはハッピーエンディングだったのだけれど鑑賞者の私見を育むという意味では完全にハッピーをもたらしたのだろうか?

ハッキリ言って私には必ずしもそのようには断言できないのだ。例えば私は2021年7月10日、ナッポスユナイテッド系列作品の『容疑者χの献身』を観に行った時に思ったのだがあの作品では原作同様、

最終的に殺人を犯してしまった靖子に想いを寄せる数学教師・石神が(ある種)の純粋な愛を貫こうとし完全隠蔽を計画していたのだが、最後の最後で予想外のことが起き、靖子が現れ、自分の罪を認める。石神の計画は全て無駄になり、彼は獣の咆哮のように泣き叫ぶ

という場面で終わるのだがあの結末があるからこそ、ここまで読めば、バッドエンディングで終わったものと思う人もいるだろうし、明らかに道義的に逸脱したは悪質な行為がトリックの手段として淡々と描かれている事に多くの議論を呼んでいるのだ。

...にも関わらず私はこの結末にむしろ希望の光を感じたし、現に原作発表時より評されている「感動的なラスト」と近い思いを抱いたのだ。

それはなぜか?ズバリ、物語の続きが、登場人物の魂が宿り、観る者の心に見事に継承されたからである。あのラストが鑑みて当然靖子は殺人罪に問われるものの正当防衛でもあった訳で行った罪さえ償うことができれば一生牢屋生活をする事はない筈で、その後石神と...というハッピーエンディングをも想像できたからである。一体その後どうなったのか、などそこをハッキリと明示していないからこそ人によってどう解釈されるかはまばらであって、むしろそこを面白いと感じた。

少なくとも私はこの演目は「希望の物語」と受け取った。

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そう、「希望の物語」と聞いて思い当たる節がある。イギリスで2014年に製作された『ジンジャーの朝』という60年代第一次世界大戦時を主体とした作品だ。詳細なストーリーはここで割愛するが、友人と主人公との間にトラウマ級の超ヘヴィーな事件が生じ、友情と間に亀裂が生じてしまう。これがまあ酷すぎてもはや修復不可能なのだ(笑)。そこでジンジャーは親友に対してお互いの人生観の違いを感じ、彼女とは訣別し、最後に各々の人生を生きようと決意するといういわば青春ヒューマンストーリーとでも称すべきドラマである。


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で、本予告編を見て頂くだけでも分かるように、そういうヘヴィーさも感じつつも全体的にどこか最後のクレジットに表記されているような「希望の物語」と呼称すべき「何か」を感じ取る事ができないだろうか?

 更に違う事例を言うと、以前以下で提示する松本大輝監督による映画『コケシ・セレナーデ』のブログ記事において、同じ音楽家としての数奇な運命を辿った主人公同士を比較する上で演劇集団キャラメルボックスによる『無伴奏ソナタ』も例示した。この演目においても主人公は拍手に包まれて幕を閉じる、と言う一応は感動の最中で終わったりするのだけれど、彼の指や喉などあらゆる音楽をやる上で特に必要なものを奪われ、恐らくはその後、天涯孤独な生涯を全うする事が示唆されている。

にも関わらず我々の心の中にスッと希望の光が灯ったような気がしたのはこの物語も同様に登場人物の魂が宿り、観る者の心に見事に継承されたからだと思う。

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*6

さて、ここで話を『コオロギからの手紙』に戻そう。

では果たして物語の続きが観るものの心に継承されコオロギが、聡子先生の魂が宿ったのかどうかと聞かれれば正直わからないし、人にっては全てを受け取って大感動の嵐、という人もいるだろうし、私のようにこの2月11日という祝日全部使ってはあーこーだ考えて12500字以上も使ってここに色々書き殴っているこういう捻くれた者もいたりする。ただ、間違いなく言えることは多分、上西雄大氏もコオロギが『Amazing Grace』とともに朽ち果ててしまった結末も頭の中にあったのではないか、と思ったりする。

だってそうした方がコオロギらしく主役らしくカッコ良く物語の一部として締め括られるではないか。(あ、あのままだと負けた事になるのでバカ息子も犬死にさせないといけないけどね。)でも敢えてそれをしなかったのはあくまでコオロギをカッコいい主役、としてキャラクタライゼーションするのではなく、カッコ悪さもないまぜにした生身の1人間として描きたかったのではないだろうか

そしてああいう結末に持っていったのは物語としての流麗さではなく、彼自身の優しさから派生する観ている者へのカーテンコール的なサービス精神までもあの舞台作品の一部としてあえてブチ込みかったからというか。さらに、あのエンディングは意味深なものを感じてて、それこそ『さらば八月のうた』ラストが、死者含めて皆次々に集まって記念写真に収まる場面で幕を閉じるのと重ね合わせ、「2度と会う事がない」と宣告した筈の親分が出てきたりどこか異次元さをも感じたりする。

そう言えば『ひとくず』におけるエンドロール後のあのラストのラストのシーンにもそういうニュアンスがある。

それは、カネマサに限らずとも、ゴロー(『西成ゴローの四億円』) にも、カーブ(『ヌーのコインロッカーは使用禁止』)にも、こうすけ(「板の上のふたり」)にも、黒崎(『姉妹』)にも、コオロギ(『ねばぎば新世界』』)などなど、なぜかカ行で統一されている彼自身が演じる登場人物全てに相通ずるいわゆる、ドグマチールなのかもしれない。

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*1:秋の虫という事で鈴虫の方が適当なんだろうけどこの辺は知りません w

*2:『ひとくず』カネマサ要素大いにありよね、あっちは逮捕されたんだけれども。

*3:こちらのサイトからの引用である。

www.good-appeal.co.jp

*4:こちらのサイトからの引用である。

ameblo.jp

*5:Wikipediaでざっと調べた公式音源だけでも25組。彼らには『ホテル・カリフォルニア』と言う大ヒット曲があるが、日本人でのカバーは『Desperado』の方が圧倒的に多い。インディーズとかのカバーを含めたらもっと多いだろう。ja.wikipedia.org

*6:過去、様々な演劇を鑑賞してきて、演劇関連記事も増えているので、ここに記述しておく。

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